灰色の片翼が願う幸せ
気がつくと、僕の手は真っ赤に染まっていた。ベッドの上では、それまで主人だった物が、僕に非情な扱いをしていた物が、恨みがましく僕を見つめて、真っ赤なシーツの中に沈んでいた。
僕は自分の手に握りしめていた真っ赤なナイフを放りだして転がり落ちるようにベッドから這い出した。目にはあの男の恨みや憎しみに支配されたまなざしが焼き付いていた。そんなものは見たくない。思いだしたくない。それなのに、それは僕の脳裏から離れようとしてくれない。
震えてもつれてまともに動かない足を無理やりに動かして、やっとの思いで崖下の湖に唯一つながるバルコニーに逃げ込んだ。体は震えて止まらなかった。胃がキリキリと何かに締めつけられるようで、気持ち悪くて仕方がなかった。
バルコニーの手すりを握りしめたら、僕の手についていた血がべったりとくっついて、僕は、その恐ろしさとおぞましさに、いっそ狂ってしまえるほどに叫びたくなった。
僕は人を殺したことはなかったんだ。獲物を殺したことはあっても人じゃない。人を殺すってことはつまり、僕がこんな人生を歩まなくちゃいけなくなったあの戦いで僕の村の人たちを殺した敵と同じってことで、それはとても恐ろしくておぞましくてそれを自分がしただなんて、信じられなかった。信じたくもなかった。
でも現実はやっぱりそんな僕を待っていちゃくれなかった。毎朝訪れる館の朝のせわしなさが、扉のすぐ傍まで近づいていた。何も知らない使用人たちが、朝の遅い主を心地よく目覚めさせるためにせわしなく働き始めていた。
僕は一層震えたよ。だって僕は人を、それも絶対に従わなければいけない主を、殺したんだから。扉一枚隔てた向こうの使用人たちはきっと、この惨状を知ったら僕を追いかける。追いかけて殺そうとする。
死にたくない。死ぬのは嫌だ。絶対に……!
僕には逃げると言う選択肢しかなかった。壊れたオルゴールのように、僕の頭には逃げなきゃいけないっていうその言葉ばかりが繰り返されていた。
僕はバルコニーの手すりから身を乗り出した。湖までは相当の高さがあることは分かっていた。でも本当に、迷っている余裕なんて僕にはなかったんだ。やっと、やっと手に入れた自由だったんだ。それを失うわけには、いかなかったから。
崖下の湖に飛び込んだ瞬間、僕は意識を失った。冷たくて、痛くて、耐えられないくらいに苦しくて、でも、代わりのように、僕の体は軽くなったんだ。
作品名:灰色の片翼が願う幸せ 作家名:日々夜