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コーンスープのお返し

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五杯目




 携帯電話で着信拒否を設定したことなど、初めての経験だった。おなじみのファーストフード店から自然と足が遠のくようになったのも同じこと。つまりは平たく言えば哉子の顔を見たくない、また哉子の顔を見たときに自分がするであろう表情を見せたくないのだった。こんな普通の女の子がするようなことは、出来れば避けたかったんだけど。
 兎に角考えることもやめてしまってから、一か月足らずの時間が経った。もとより会う機会を減らしたであろう期末テストを間に挟んだのもあって、あゆむは殆ど感情を波立たせずに試験休みを迎えることができた。
 勿論、考えずにいた、というのは何もかもを避けて、整理せずにいたのと同じである。そして無意識の中では、その状況を変えようともがいていた。彼女はときどき夢を見た。正確なあらすじは判然としないが、夢はいつも哉子が踵を返す場面で終わった。呼び止めようとしても声は出ないで、やがて冷や汗を首筋のあたりに感じながら目を覚ましている自分に気付く。もっとも眠りを避けるのにテスト期間ほど便利な状況もなかったから、あゆむは十二分に勉強という逃避手段を利用した。
 そして、明日は終業式、という日の夜に。
「ああ、そういえば今日、ひさしぶりに哉子ちゃんに会ったわ」
 母がそんなことを言い出したのはめずらしく7時前に帰って来、あゆむがそのコートをかけているときだった。
「……誰?」
「だから、哉子ちゃん。伝言も頼まれてるんだから。『明日の放課後いつもの席に来て』って」
「………………」
「何があったのかは知らないけど、拗ねてなんかいないで、あゆむはもっと素直にならなくちゃ。じゃないと、あゆむが考えてることなんて誰も分からないんだから」
 思わず頬のあたりが引きつるのを感じながらあゆむは母に向き直った。いきさつを知らない(はずの)相手に説教されるような言われはないはずである。
「話したところで、分かってもらえないことだってあるけど」
「そこまでは責任取れません。けどまあ、哉子ちゃんはいい子じゃない?」
「だからって、」
 だからって、その言い方はあんまりじゃないか。
 哉子が「いい子」だとあゆむはよく知っている。幼馴染みとして過ごしてきた日々の中で幾度もあゆむを巻き込んだ嵐のように目まぐるしく変わった機嫌は高校に上がってからは収まって、感情を長時間溜め込んだのちに爆発させるあゆむの癇癪のほうが目立つようになったけれど、容易く気持ちをむき出しにする哉子をあゆむはいつも半分羨み、もう半分では妬んでいた。それでもいつだってそんな哉子を見ていた。ときどきは隣で、冷え症のせいで汗をかいているくせに酷くひんやりとした手を握り締めた。同じ手が、何度も何度もあゆむの手を引いたのだ。ともすればひとりでいることしか出来なかったあゆむの手を引いて、哉子はあゆむのために怒ったり笑ったりした。声を張り上げる哉子を後ろから見つめながらあゆむはいつだって不思議な気持ちでいた。どうしてこのひとは、わたしのためにここまでしてくれるんだろう。このひとの隣にいることしか出来ないわたしのために。
 すぐ側にいられなくなった今でも、そんな質問は時折形を変えてあゆむの脳裏を駆け巡る。聞き手が自分でよいのかどうかという自問でもあった。でなければ、哉子がすきなひとについて話すのをあゆむはとても平静な顔で聞いてはいられなかっただろう。他校だから、幼馴染みだから、そんな理由であゆむに話すのか、それともあゆむだから、あゆむが聞いているから、哉子は平気でクラスメイト相手に悪態を吐き、隠しているはずの思い人への熱に浮かされた賛辞をうっとりと口にするのだろうか。
「で、行くの、行かないの」
「……行く」
 結局はうなずいたあゆむに母は何も言わなかった。ただ荷が降りたとばかりに、肩をぐるぐると回してみせただけだった。


*


「はい」
(で、何でこんなことになるんだか)
 ことりと目の前にコーンスープの入った紙コップが置かれる。先ほどからあゆむの視線は、哉子の方から逸れたままだ。
 素直になる、というのは、案外難しいものらしい。
(この場合、八割方哉子のせいなんだけど)
 形式的でいいから一言くらいあやまってくれたって、何も哉子が損をするようなことはないと思う。それにそうされればきっと、あゆむはたちまち哉子を心から許してしまっていただろう。涙のひとつやふたつすらこぼしていたのかもしれない。
 いつものファーストフード店の、いつもの席。そこに哉子は化粧をばっちりしている上に私服で座ってあゆむを待っていた。長い髪をアップにし、胸元にはハートのチャームがついたネックレス、水色のシャツの上には黄緑と紺、二枚のベストを重ねていて、その下はグレーのチェックのショートパンツに紫のタイツ、お気に入りのエナメルパンプス、羽織った黒いコートの釦は開けたままになっている。そうして、いつもとまったく変わらない調子で、「あゆむー!こっちこっちー!」などと名前を呼び、あまつさえ大きく手を振ってフロア中の注目を集めていたのだ。今までの仲違いは既に消化されたのだとしても、あゆむに避けられていた事実には気付いていなかったのではないかと疑いたくなっていまう。いったい哉子は自分のことをどう思っているのだろう、とあゆむは店に入る前に振り絞ったはずの勇気が、急速に萎んでいくのを感じながらなんとか哉子の顔をまっすぐ見ずに済む隣に腰かけた。
 その哉子はといえば、やはりあゆむの葛藤などには全く気付いていなさそうな涼しい顔をして飲み物を口にしていて、しばらくは話をせずに過ごした。これもまたいつも通りだったのだが、だんだんわざとらしく見えてきたのは、気のせいだろうか。
「さてと」
「………………」
(何がさてと、なんだ。バカ哉子)
 対抗して、あゆむもまたしばらくは口を開かないつもりだった。こちらの気持ちを存在ごと帳消しにしてしまいたいのだろうが、そう簡単には行かないことを見せてやらなければならない。
「今度はあたしからお願いするっていうか、単刀直入に言うわね」
「何」
 はず、だった、んだけど。
「あたしと付き合いなさい、あゆむ」
 沈黙。沈黙。沈黙。
 たっぷり一分間は黙ったままでいたと思う。あゆむはその間、上半身ごと振り向いてまじまじとこの幼馴染みの顔を見つめていた。しかし哉子は笑わなかったし、あゆむから視線を逸らしたりもしなかった。彼女はただ答えを待っていた。自分から命令したくせに、ひたすらにあゆむの答えを、忠実な猟犬のように息を詰めて待っている。
 やがて喉元につかえていた架空の塊が飲み下され、あゆむは掠れた声で、
「あのさ」
「うん」
「わたし、哉子にそんなこと言った覚え、ない」
 今度は、というあまりにも瑣末な部分を取り上げたのは、真正面から向き合うだけの気力がなかったからだった。本当ならば、いつものあゆむならば「なんでわたしが哉子と付き合わなきゃいけないわけ」くらいの言葉をすぐに出せただろう。しかし今はこれが精一杯だったし、哉子が顔色ひとつ変えないでいとも簡単に切り返したのも当たり前だった。
「じゃあ、厭なの」
「だから、そういう問題じゃ」
「なら決まりね」
作品名:コーンスープのお返し 作家名:しもてぃ