コーンスープのお返し
四杯目
玄関をくぐるやいなや、スカートに皺がつくのも構わずにあゆむはドアを背にしてずるずるとその場にへたりこんだ。勿論、鞄に入った教科書の重さのせいでも、買ったばかりのローファーの硬さのせいでもない。身体中から急に力が抜けたのは虚無感と苛立ちと悔恨と、何よりも悄然とした気分のせいだった。
「うぁあ……」
(有り得ない、有り得ない、信じられない――!)
よりによって哉子に、あんな言葉を投げ付けてしまうなんて。
告白に感情移入するあまり、興奮していた上に混乱もしていたのは間違いない。だから哉子の、彼女にしてはありがちな慰めにすら逆上してしまったんだろう。もっともこの場合、いつもはあゆむを冷静にさせてくれるはずの状況分析はまったく役にたたなかった。あのシーンの最中にだって役にたっていたわけではなかった。けれどもあゆむは考え続けた。まるで自分を罰そうとしているみたいに、吐いた台詞を何度も何度も再生した。 言葉自体はまだいい。ひとりで帰れ、くらいのことは何回も口にしている。問題なのは声の調子、唇を動かしながら自分が何を思っていたか。
いなくなって欲しい、と思った。ただ自分の気持ちのためだけに目の前から、いっそ意識からまったく消えてしまってほしい、なんて、どれだけ身勝手だったことだろう。哉子は通りかかっただけで、あまつさえあゆむを元気づけてくれようとしたのに、まるで哉子のせいでなにもかもが上手く行かなかったみたいに追い払ってしまった。
いまごろ哉子はどうしてるんだろうか、と考えて、落ち込んでいやしないだろうか、いやむしろあゆむのことを怒っているんじゃなかろうかと考えて、そして、しごく当たり前の結論に達する。
となると、もう座り込んだままではいられなかった。通学鞄をいったん肩にかけ直してから立ち上がり、スカートを整えながらローファーを脱いで揃える。自分の部屋に飛び込んで丁寧にドアを閉め、鞄を置き普段着に着替えて深呼吸をひとつ。クローゼットの中にかけられた、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出し、立ったまま緊張した面持ちでアドレス帳から番号を呼び出した。
「……哉子?あゆむです」
3コールの後に通話が繋がった。
「うん。どしたの」
「えーと、ね」
「………………」
メールでは返事を待つ時間に耐えられないだろう、と通話を選んだのに、ふたりの間に横たわった沈黙は想像以上に痛かった。あゆむはふと、普段なら哉子からなんでも切り出してくれるのに、と逆恨みのようなことを思った。
「たいしたことじゃないんだけど」
「何」
静けさの原因であるところの、いつにない哉子の無口さに調子を崩されながら(というよりも言いたい言葉を引き出すことが出来ないで)少しだけ声を高くする。
「あの、ね、今日のことは」
「何が」
「ごめん、その、わたし――気にしてる?」
「別に」
「じゃあ……よかった」
(これでいいわけ、ないんだけど)
「それだけ?……なら、もう切るけど、いいわね」
「うん」
「じゃあ、また今度」
「うん」
あっけなかった。
あゆむが会話を続ける手段すら見出だせないうちに電話は切れた。すると哉子はやはりいつも通り場の流れをいとも簡単に変えたというわけだ。ただその方向が、いつもとは真逆だったというだけだ。少し迷ってから、携帯を充電器の上に据えた。椅子に座って数学の問題集とノートを取り出し、ペンケースからシャーペンを選んだ。そして哉子について、怒っているというよりも拗ねていた哉子、あゆむが話している間には口を噤んで、やがて不機嫌な返事を返した哉子について考えはじめた。
喧嘩をした記憶が掘り起こされることはなかった。幼馴染み同士というのは一緒にいる時間は長いくせに、ともすれば友達よりも薄い仲なので、仲違いをするようにいたる程のきっかけが訪れることは少ない。もっともつまり逆にいえば、仲直りの契機もまた容易くは訪れないのだ。それを自分で作りだそうとするだけの自信もあゆむにはない。とすれば、来ること自体がめずらしいと知りつつも外的なきっかけを待つしかない。
何かを探そうと部屋中を見回していたあゆむの目が、やがて机の上の壁にかけられたカレンダーに止まる。月毎に静物の写真がついているシンプルなカレンダーの一点に視線を固定させて、今日再びの深呼吸をした。
*
「何、それ」
「何って、見て分からないの」
言ってしまってから、しまった、と思った。
だがもう遅い。差し出した箱は、きれいなぴかぴか輝く紙に包まれて、ストライプのりぼんをかけられている。どう考えても今し方口にした言葉に相応しくない。
当日はどうしても避けなければならなかったが、それ以外にはさしたる障害もなかった。何しろ告白ではなくて、ただの仲直りのしるしなのだ。きっかけはしるしの形を決めるのに役立っただけ。放課後の校門前で、待ち合わせをしていたみたいな顔で立ち続けて、やがて哉子がひとりで門をくぐったのにほっとして駆け寄って、いつも通りに限り無く近い会話をいくつか交わした。そこまでは、よかった。
「どうしてくれるの?」
「どうしてくれるって……仲直り、したい、し……」
「いいよ、そんなこと」
どこかひんやりとした刻薄さの混じった表情を浮かべてチョコレートの箱をつき返した哉子の前、あゆむは頭から冷水を浴びせかけられたような気持ちで顔を俯かせた。それには取り合わないで、そもそもあゆむを見ていない哉子が言葉を続ける様は自分の知っている彼女とはまるっきりの別人のよう。いたたまれなさに、自分こそが消えてしまいたい、と思った。なんでわたしは、チョコレートを選んだんだろう。哉子はバレンタインが嫌いだって知ってたはずなのに、でも。
「ね、あゆむ、無理しなくてもいいのよ」
ふ、と耳に飛び込んできた、いつもみたいな――今までみたいな、明るい声に顔を上げる。
哉子は笑っていた。
「あたし、デリカシーはないし、だいいちレズだもの、男女の情ってやつは分からないわ。だから、あゆむも無理しなくてもいいのよ?」
しかし張り付かせたそれはは目までは行き届かず、やはり冷たい光が、今はあゆむにじっと注がれている。
答える手立てはなかった。あのときのことを言っているのだ、とすぐに気が付いた。だけれども弁解のしようはない。それだからあゆむはあやまろう、と思ったのだ。哉子が口にしたような事柄を気にかけたことなど一度もない。しかし、あのとき何を思っていたかを口にできるはずもない。結果立ち尽くしたままのあゆむは、否定しかできなかった。それもあまりにも拙い、子供の言い訳みたいな否定だった。
「違う、」
「何が?」
「わたしは、そんな意味で哉子に……」
「いいよ、もう」
宙に浮かんでいたチョコレートがあゆむの手の動きにつられてゆっくりと落下する。
髪を掻きあげた哉子があゆむから逸らした視線をどこか遠くにやりながら言葉を漏らした。
「ごめん、あゆむ」
「?」
「ただ、分かってほしいの」
それ、を鞄の中へ入れながら、不意に泣き出してしまい様な気持ちに襲われてあゆむは黙りこくる。
「こんなことは、あたしをつけあがらせるだけよ」
「それって」
「あたしは、勘違いしちゃうもの」
作品名:コーンスープのお返し 作家名:しもてぃ