獏の見る夢
第一の夢
*
「兄さん! 頼むよ! 兄さん!」
「……。帰れ」
「どうしてだよ! 兄さん! 三百万でいいんだ! それで俺も、俺の家族も! 会社も! みんな助かるんだよ!」
大きな声で喚き散らす男が見える。足もとに縋りついた男から視線を外したのは、さっき事務所に来た男か? ……いや、違うな。違う。――あれは……俺だ。
「兄さん!」
必死の形相で足にしがみ付いてくる弟を、俺は汚い物を見るような眼で見下ろした。いや、事実汚いのだ。俺にとってこの不出来な弟は、既に汚物と同じ存在なのだ。
「帰ってくれ。こんな所を人に見られたくはない」
「兄さん!」
尚も縋りつく弟を蹴り飛ばし、俺は踵を返した。
「兄さん!」
悲痛な声が鼓膜を刺激し続ける。
ぐるりと視界が回転して、場面が切り替わる。電話のベルが鳴り続けている。目の前には荒んだ一つの部屋。そしてその部屋の中にあるものは――弟だ。
弟は宙に浮かんでいる。西日が弟の影を長くしている。影は俺の顔を捉えて離さない。
逆光に目を凝らしながら、宙に浮かぶ弟に近づいていく。どうした事だ? 俺の体は震えていた。
一瞬、光が弟の顔に差し込んだ。その形相を見た瞬間、俺は思わず腰を抜かした。
青白い肌に飛び出た目玉。口からは紫色の舌がだらりと垂れ下っている。弟の首には洗濯用のロープが巻かれていて、それは太い柱に繋がっている。そう、弟は首を吊っていたのだ。
「……これで、保険金が入ります。私と息子は救われました」
振り向くと弟の妻が俺を見ていた。
「救われました……救い? ふ、ふふ、ふ……」
女は笑っていた。笑いながら泣いていた。そして俺を睨みつけると、思いのたけをこめて言葉を発した。
「あなたが殺したのよ!」