一滴の海は辛く
…介護が必要なくらい、アースは体が悪いのだろうか。そこまで悪いのならば、面会に行かなければ良かったかも知れない。ちょっと後悔した、心の奥底で。
クレイモアの喜んだ顔が、脳裏に浮かんで少し罪悪感。でもクレイモアもそこまで馬鹿じゃないだろう。せめて、一日だけでも元気になれればいいのだろう。そう思うことにした。都合の良い解釈だけど、でもそこまで体が悪いのを言わなかったクレイモアだって卑怯だ。なんて、ひねくれてみるけれど、罪悪感は募るだけなので、考えるのはやめだ。
クレイモアが門番を見てから、そこには近寄らず、後ろ側に回る。
「あれ? 門からいかないの…?」
「僕、出入り禁止をくらっているんだ。あんまり遊びに行きすぎるから。それに…」
「それに?」
「……サーファイトを、怒らせたから」
「サーファイト?」
「ここで一番偉い神様。宇宙の守り神」
忌々しげにそう言うと、クレイモアはさっと駆けだした。それに続く俺。何だか泥棒しにいく気分だ。
宮殿の日陰側の花園に行く、そこから中に入れるようだ。誰もいない、アース以外は居ない宮殿に侵入した。
中にはいると、かつんとクレイモアの靴の音が響く。俺は幽霊だから、響きはしない。神やこの世界の人にはさわれるが、物体にはさわれないらしい。
「青玉はさ、地球の居心地、どうだったの?」
「……何故そんなことを聞くんだ?」
「馬鹿だね、君が地球から生まれたのなら君は、アースの仔だろう? アースは僕の恋人。君は僕らの子供ってわけさ。子供に、住んでる場所のこと聞いて何が悪いの?」
言ってる言葉は何処かつっかかるものがあるけれど、本当に嬉しそうに破顔するその姿には憎めないものがあって、俺は素直に自殺したことを告げた。そのときのクレイモアの睨み付け具合ときたら、怖くて笑った。
「いらないんじゃないかなって思って」
「……――」
「あんな世界に、普通に暮らして普通に存在して、それなら他にもしてる人はいるし、いらないんじゃないかなって思った」
今は後悔していると付け足したところで、クレイモアが漸く睨み付けから、微苦笑をした。
「後悔してるなら、僕はよけいなことは言わないよ」
暫く歩いて、ある一室に入った。
そこには御姫様ベッド…ようはあれだ、カーテンと天井つきのベッドだ。
あれがあって、ふわふわで半透明の薄いカーテンの中に、誰かが起きあがっていた。
「…どなた?」
驚いた。クレイモアやエピオラの見かけが若いから、若いのだろうと思っていたら、ひしゃげた老人の声が聞こえた。それでも、優しげなのは声だけでも判って。少し安堵した。怖い先輩だったら、どうしようかとか、ちょっと考えてたりもしたからだ。
声が聞こえたことで、嬉しそうに反応し、ベッドへ駆け寄るクレイモア。
「僕だよ、アース」
「クレイモア! …貴方、出入り禁止になったんじゃ…」
「えへへ、こっそり入っちゃった。
だってね、やっぱりね、アースには僕が居ないと駄目だと思うんだ」
「……クレイモアったら。ふふ」
お姫様ベッドの中の人物は、背中をたくさんの枕に預けて、手を口元に寄せる。そして花のように笑い、声を漏らす。
クレイモアもつられて笑う。俺は、笑って良いのか、どんな顔をしていて良いか困っていた。
クレイモアがその人物が起きあがる手伝いをしながら、背中を撫でる。少しその人物が咽せる音が聞こえた。
「あのね、あのね、いっぱい話したいことがあるんだ」
「けほっ、ちょっと……待って。ん、んん……」
クレイモアがまるで、「待て」をされた犬のようにお預けをくらい、老人は少し喉の調子を確かめてから、声を出して、ごめんね、と微笑んだ。
「……それよりも、あら、他にお客様を連れてきたのね。貴方にしては珍しい」
気づかれた。鋭い。少しどきりとした。クレイモアが俺を振り返って、それからアースに向き直り、ぽつりぽつりと呟くように、教える。
「……実を言うとね、あんまり連れて来たくなかったんだけど、お見舞いすると病人は気分が良くなるっていうから…それに…」
青玉だからと、クレイモアは不機嫌そうにつけたした。
そう言われると、アースは少し黙った後、クレイモアにカーテンをあけて、とお願いして、俺とご対面。
白いウェーブのかかった髪に、穏やかな窪んだ黒い目。しわが多い顔を、穏やかに頬笑ませて、俺を見つめる。その瞳があまりに優しすぎて、慈愛に満ちていて。母さんを思い出してしまって。ばあちゃんを思い出しちゃって。
俺は泣いてしまった。
挨拶出来なかった。二人とも葬式で泣いていた。親泣かせ、祖母泣かせの馬鹿者。それでも、無性に会いたくなった。あの暖かさに触れたくなった。
会いたい。会いたいよ。もう叶うことのない願いだけど。
どうしたの、とは、聞かれなかった。
どうやら、前にも俺と同じ反応をした奴が居るらしくて。
「こんなおばあさんで吃驚したんでしょう? ごめんなさいね」
「ち、違うんです。ちょっと身内を思い出しちゃって…」
俺は、その眼差しに懐かしさを見いだして、少し泣けた瞳をごしごしと手で拭おうとするのだが、どんどん溢れる涙と懐かしさは止まらない。
……この温もりを、クレイモアは知っていた。
――だから、彼女が元気になると知って喜べた。そして、彼も俺を理由にして会いに来たことを知る。利用したのだ。それを知っても怒りが沸かなかったのは、罪悪感と、きっと彼女の温もりのお陰。
アースは、どんどん泣く俺に、それでも理由を聞かずに、優しく頬笑んでいて。泣いてることを追求しようとはしなかった。その笑みに、彼女の優しさを思い知る。
「――アースに、似た人がいるの?」
「いや、居ないだろうけど、眼差しが、なんていうか、思い出しちゃうんだ、母さん達を」
「……そう。それは、光栄だわ。『アース』は母の象徴だもの。それらしく私が見えるって言うことでしょう? ……有り難う」
「何で? 何で有り難うなの? 僕、よく分かんない」
「そういう風に思ってくれて、嬉しいってことよ。
青玉さんは、クレイモアが私を好きっていう気持ちと似てるっていうことを、言ってくれたのよ」
「…それなら、判る! えへへ、僕アースが大好き。好き以上に大好き。愛してる」
そういって、さっきまでの不機嫌面を優しげなものに変えて、満面の笑みで、アースに抱きつくクレイモア。抱きついて彼女の生の薫りを吸い込んで、安心したように肩の力を落とす。
アースは、苦笑して、クレイモアを愛おしげに見遣ってから、俺を見つめる。
「どうして、こんなお婆さんがクレイモアのような若いのに好かれているか、不思議でしょう?」
「……判る気はするけど。こんなに優しいのなら、そりゃ好きにもなる。でも、恋愛の好きにはならない…」
「……そう恋愛の好き、になるはずがないの。どうあっても、精々近所のお婆さん。でもね、私、実はクレイモアと同世代なのよ」
その言葉に口があんぐりと。
同世代?! このクレイモアと、このアースがか?!
どう見たって、クレイモアは俺と同い年か、それより若いかに見える。背は別として。
それなのに、この優しい面持ちのお婆さんと、同い年だなんて…。