一滴の海は辛く
クレイモアがふむ、と唸ったところで、帰ろうとしたとき……待ってくれ、と青玉が制止した。
いったい何だ、と俺らは止まり、アクアマリンから飛び出す一直線の淡青色の光を、手で覆い隠す。
青玉が真剣な顔で、暫く黙り込んでから、アタシは残る、と言った。
「どうして…」
「ちょっと、用事がまだこいつにあってね」
…意志の強い瞳。また、何か隠してるな。この人、演技派だからさ!
「青玉」
「……紅玉、何でもないよ、心配するな」
彼女の口元が、酷く印象深かった。
まるで、それしか目に入らないような…視界がぶれる。なんでだろう。
嫌だと、言いたいのに、口は判ったと言っていて、足は帰る道を歩んでいた。
クレイモアは、おかしな二人と言いつつも、興味がないのか、俺に付いてくる。
そうして、外に出てから、体が自由になったことに気づき、催眠をかけられていたことが判った。
また入ろうとしたら、門番の神に、一日一回しか此処へは入れないと言われ、強制的に帰らせられることになった。
――青玉。
何を、何を、今度は考えて居るんだ?
俺にも言えないことなのか?
俺じゃ頼りないのか?
“紅玉、何でもないよ、心配するな”
――お前は嘘つきの名人だったのに。
――嘘をつくのが、段々苦手になってきたな、青玉。
――それとも、俺相手に騙すのは、嫌だってことだと、自惚れて良いのか?
クレイモアと別れて、自宅に戻る。
場所はクラッセル。
一番最下級の場所だが、俺なりに気に入っている。アパートみたいな部屋の連なりで、他の神との交流が楽しい。
本来ならば、アースの宮殿に住んでもいいらしいのだが、同居人が罪深いので、それは許されなかった。
俺と青玉は一緒に住んでいる。
だから、彼女が帰宅するのを待った。
問いつめるつもり。なんだって、催眠なんかかけてまで、俺を追い出したのか。
がちゃり。俺と違って、ドアをあけなきゃいけないので、そんな音がしたのなら、彼女か、他の誰かが開けたということになる。
振り向くと、嗚呼、彼女だ。
俺は、睨んでやる。何で、催眠なんかかけたんだ、と目で訴えてやる。
彼女は、少しだけ苦笑を浮かべてから、真面目な顔に戻り、ごめん、と言った。
――どんな意味でのごめん、かは、判らなかった。
彼女の言葉には、いろんな意味を含んであったりするから。
でも、ここは素直に催眠をかけたことに対するごめんなさい、でいいのだろう。
「何で催眠かけたりなんかしたんだよ」
「……ちょっと、サファイアと二人になりたかったんだ」
「浮気ですか」
「馬鹿」
くすくすと彼女は笑い、俺の隣に腰掛け、抱きしめる。
ルーレの家具って、幽霊でも座れたり出来るから素敵。
青玉はそれから、ご飯でも食べるよ、と立ち上がり、料理支度をする。
食べたり出来るのは彼女だけだから、彼女の分しか作らなくていいんだが、彼女は、気分の問題だと言って、俺の分も作る。
「今日は何ー?」
「まぁ、野菜中心」
「和食? 洋食?」
「……お前は、どっちがいい?」
……驚いた。
いつもならば、聞くことはないのに、何故今日は訊くのだろう。やっぱり何かあったのか、と慌てて訊いてみる。
彼女は、話を聞かずに、料理を作っている。
――この距離なら、声は届くはずなのに。馬鹿。気づかないふりなんて、するなよ。
「紅玉」
「ん?」
「海って、何だと思う?」
「海? そりゃ、海は海だろ?」
「そうじゃなくてさ……なんて言えば良いんだか」
「判らないなぁ。海は海だ。しょっぱくて、青くて、でも実際手に救うと透明で」
「じゃあ、もしかしたら、涙もいっぱい集めると青くなるのかね」
「……さぁ」
「アタシはね、海は星の涙だと思うんだ」
「……星の涙?」
「星が、泣いて、地面からあふれ出ちゃったもんだと、いい感じじゃね?」
「……――」
「……どうせ、涙なら、うれし泣きがいいな」
突然そんな話をし出す、彼女の心がよく判らなかった。
もとから彼女は推し量りがたい。
それなのに、更に遠くに行ってしまったような、感覚。
「近くにいるよな?」
自分でも分からない、ぽろっとでた質問。それに彼女は、声だけを聞く。
「あ?」
「……傍にいるよな?」
――簡単な、質問じゃないか。
うん、って言えば、終わるじゃないか。
――なんで、なんで、そんな困った顔をするんだよ。
――なんで、そんな飲泣しそうな顔をするんだよ。
「傍に、居るんだろ?」
震える声。何故この声は震える?
「傍に、居るんだろ?」
強ばる体。何故こんなに堅い?
何故、こんなに空気が重い?
「青玉」
「……ごめんね」
彼女は、もう一回呟いて、それ以上は、喋ろうとはしなかった。
何で、謝るのかが判ったのは、その次の日。
「何だよ、これ。何なんだよ、これ…?!」
起きたら、手紙が一枚あって。
俺が触れないのを知っているからか、そこに、読ませるようにテーブルの上に置いてあった。
宛先は、俺宛。
手紙の内容を見て、俺は家をすぐに出た。
それから、浮遊して、ランへ向かう。
――なんだよ、なんでこうなるんだよ。どうしてなんだよ!
“紅玉へ”
お前の、その固い黒い髪が好きだ。
“ランでちょっと、転生しにいきます”
お前の、その鋭い眼差しが好きだ。
“海になる”
お前の、その大きな背が好きだ。
“これから、ちょっと傍に居られないけれど”
お前の、その聡いところが好きだ。
“もう、今のお前なら、心配いらねぇよな? アタシぁちょっと寂しいけど、平気。だって、お前に育てられるんだもの、きっと”
「紅玉!」
地上で、クレイモアが呼びかける。
止まらない俺を見て、上を見上げながら駆け出す。危ないぜ、その走り方。
「青玉が、青玉が!」
クレイモアが、空を仰ぐような形で喋り続ける。
「青玉が、サファイアの海になっちゃうんだって! 転生しちゃうんだって!」
“今も昔も愛してんぜ、元気でな”
――だから、そのもったいない言葉は、俺が死んだときにでもかけてくれよ。
毛布でくるむように、優しくさ。
頬を流れる雨なんて知らない。
*
ランの、どこだか判らないので、ランまで来たら、クレイモアを背負い、何処にいるか案内させる。
クレイモアはランの町並みをきょろきょろとしてから、一番大きな建物を指さす。
「あそこ! 昔、紅玉の転生について、話し合ってたのも、あそこだって、噂になったもん!」
「間違いないんだな!?」
「自信は、ちょっとだけだけど、他には思いつかないから、うん!」
「うん、に理由なんてつけるなよ」
俺は、一番早いスピード…っていっても、走る程度のスピードなんだけど、全速力で飛んでいった。
大きな建物に入ろうとすると、もちろん追い出されかける。
だけど、クレイモアが喚いて、無意識に注意を引きつけてる。
その隙に、クレイモアに謝りつつ、中へとすり抜けて入っていった。
何処だ、どの部屋だ。
いつ海になるんだ、今か、後か!?