一滴の海は辛く
それから、彼女はわんわんと泣いた。俺の周りってわんわんと泣く奴多いな、なんて苦笑して。
俺は彼女が泣きやむまで、ひたすら待った。
この体勢はちょっと辛いけれど、でも、彼女が泣きやむまでは、やめられない。
ほら、心細かったり、嬉しかったりするときはさ、人肌が欲しいじゃん?
……何十分経ったかな。結構経った。
彼女はまだ泣きやんではいなかったが、急に声がやんだ。
どうした? と聞いてみる。すると、にこりと今までの最上級の笑みを見せてくれて、離れる。横にそろそろと、動く。ちょっとその笑顔、反則すぎやしないか?
「……もう一度…もう一度、最後に俺の死に神って呼んでくれないか?」
「……嫌だね」
俺はその言葉の違和感に気づかない。
「……意地悪だね、お前。でも、そんなお前だからかな。守りたいんだ……もう、見守れないけれど…。あの子に殺されるなら、それも仕方ないかなって思えるんだ……アタシも、恨まれることを、したんだから」
俺はその言動の意味に気づかない。ゆっくりと横に移動する彼女に。
何のことか判らない、そう言おうとした瞬間に、彼女の腹にナイフが刺さった。
ちょっと、
ちょっと、待ってくれよ。
展開早いよ。
そのナイフはどこから生えてきたの?
ナイフの飛んできた方向を振り向く。
俺の後ろに居たんだ。来迦…。
人形そのものの、冷たい顔というか何も映し出されない表情。
「兄様の仇、兄様の仇、兄様の仇…」
「来迦? 待って、待ってくれよ……待てよ!」
怒鳴っても、返ってくるのは冷酷の機械的な瞳。
「『来迦』プログラムが起動されたのよ、青玉ちゃん。『来迦』なら、こうしてるはずよ。大好きな兄の仇をとるはずなのよ」
何も映さない瞳は、何よりも冷徹で。無情で。身がすくむ。
その瞬間を見計らって、来迦が動く。
来迦が、走って、自分より背丈も上のエピオラを、刺しているナイフを捕まえて、それを持って、押し上げるように、すぐ後ろのバルコニーの柵まで押しやる。その力は流石ロボットというか…。柵の超えた先は当然ながら、空中だ。下には庭があるだろう。
エピオラが痛みの咆哮をあげる。
エピオラ、と俺は叫んで、彼女の方に駆けていく。
柵から、落ちそうになっている、来迦が落とそうとしている。
「やめろ、やめろよ、来迦、エピオラ!」
「駄目。起動したプログラムは止まらない! 『来迦』だったら、仇を殺すのよ」
「あんたは! あんたは、来迦じゃなくありたいって言ってたじゃないか!」
「……!」
俺の言葉に目を見開き、少し悲しげな瞳になった来迦。無情さの中に優しさがかいま見えた。青い炎が赤い炎に変わる、そんなほんの少しの安堵感に似た感情が、横走る。
「どうやったら、止まるのか、判らないのよ! 私は、来迦よ! 来迦を生かすためだけに作られたロボットよ! 来迦以外の生き方なんて判らない!」
「……っくそ! 出来るだけ、止めたい意志を持ってくれ!」
俺はそう言うと、エピオラと来迦を引きはがす。
すると、その反動で、エピオラが落ちる。嗚呼、何度待ってくれと叫んだだろう。
待って!!
待ってくれよ!!
がしぃ。
手を伸ばすと、俺の手が間に合った。
彼女の腕首を掴む。意外とそんなに重さを感じない。ということは…。
「浮けるか? 自分の力で、少し浮くことが出来るんだな?」
「……足我、離せ。…アタシは、もういいよ」
そう言われた瞬間、自分の中の何かが弾けた気がした。世間的に言えば、キレた。
「何が、いいよ、だ! 俺がよくないんだよ! 俺がお前に死んで欲しくないんだよ!
残された側の気持ちを考えろ! お前は、お前は、ただ一人の死に神だから。
俺の死に神だから」
俺の愛した死に神。
俺の大好きな死に神。
俺の小憎たらしい死に神。
俺の憎んだ死に神。
俺の哀れんだ死に神。
俺だけの死に神。俺専用の死に神。
どれもこれもあげていけば、きりがない。
でも、それぐらい、お前が、俺の中を占めて居るんだよ、俺の死に神。
良い意味でも悪い意味でもな。
――お前と見た空を覚えている。部屋で見た青い空。屋根の上で見た黒い空。お前は、その空のようだ。表と裏があるんだけど、どっちも綺麗で。思うことは様々。
俺の死に神と呼んだら、彼女は目を見開き、それから笑おうとしかけて…瞳を閉じた。
気絶? 死んだ?
出来れば前者で。頼むぜ死に神。死に神が死ぬなんて洒落になんないぜ。
でも、それによって、俺の手にかかる体重の重みは増して。
当然彼女よりも背が低い俺は落ちてしまうわけですよ。
彼女を抱えて、空中、どうすれば、と思考を巡らせていたけれど、いい案が浮かばない!
それよりも先に、地上とご対面しそうだよ、ハニー。
俺幽霊だから死なないか。でも、このままじゃ、彼女が死ぬ。確実に。
ん、幽霊?
それだ!
俺は、出来る限り意識して、浮遊出来るように、祈願した。
祈る先は、友人の、月の守り神、クレイモア。
だって、身近な神様の方が、ご利益ありそうじゃん?
そしたらさ
できたわけよ、浮遊。
信じられなかったのは、俺もさ。マジで? って自分の体に聞いちゃったもん。
奇跡ってさ、信じると、本当に起きるんだね。
でも、何より一番信じられなかったのは、その光景を見ていたのか、地上で数人でシーツ広げて受け止めようとしていたクレイモアの行動。
――あっはは、あんた、人付き合い、嫌いじゃなかったっけ?
そして、上からロープをつるしてる来迦。
――プログラムは止められたんだね、良かった。
ははっ、と笑いが漏れる。
素敵だ。あんたら、最高だ。イカしてるぜ。
今までの、今まであんたらがしてきた行動の中で、一番最高で大好きだよ、その気持ち。
何が可笑しい、気が狂ったか、と下でクレイモアが五月蠅いので…ゆっくりと、落ちてみた。ロープの先に、有難う、と叫んで。
*
場所は、ラン。最上級の場所で、最上級のお偉いさんたちが、集まってるところ。
俺は、サファイアの指輪と、アクアマリンの指輪をもらい受けて、代わりにクレイモアに持ってもらった。
クレイモアはアクアマリンの指輪を懐かしげに見つめ、アースが育成を引き受けた時の話をする。
それを聞きながら、俺らは来迦の居る部屋へ向かった。
来迦は、見事、史上初、プログラムに逆らえたロボットということで、珍しがられて、 いろんな神々から一緒に住まないか、とお誘いを受けている。
つまりは、新しい主人が出来るわけだ。
先客に礼をしてから、出て行ってもらって、クレイモアと来迦と俺だけになった。
「青玉ちゃん! クレイモアちゃん!」
「ちゃん付けやめてよ、僕呼び捨てがいいよ」
「俺も俺も」
「ふふっ、今度は私の意志で呼ぶからね」
嬉しそうに笑う彼女。その彼女には、以前感じていた、悲しげな空気は全くなかった。
…あの日が最後。
エピオラを刺したあの日で。
「で、誰のところに行くことにしたの?」