私の弟ハチと
父さんは残業で、母さんは飲み会に行ってきます、と書かれた紙がテーブルにあった。
リビングには、二人しかいない。
そう言うとなんだかひどくやらしいが、気にしない。
「なんなの、彼」
「……あー」
染めてもいないのにやたら痛んでいる髪の毛を、ガシガシと掻きながら言葉を選ぶ。
ハチの語彙力には期待していないが、大人しく待っていると、その内に口を開いて静かに話が始まる。
「……いや、特にわかってるわけじゃないんだけど」
「うん」
「俺さ、笑わないで聞いてくれよ」
「笑うかも、ごめん」
おいおい、と言いながらハチの話は続いた。
「ってわけ。……わかるかなー」
衝撃の事実である。
なんだ、まだ映画の撮影は続いているのか、という気持ちが生まれてきた。
頭の整理が追いつかない。
「……つまり、あんた」
「うん」
まるで、フィクションの世界である。
ハチが今より何百年も前の人間だった時があって、彼も一緒だった。
そして、ハチはその記憶なんかはないのに、無意識に彼を探し求めていたのだ。
「冗談でしょー」の一言で撮影が終わるなら、そうしたいが、そうもいかないのは私が一番わかっていた。
あんな、真剣な顔をして嘘をつけるハチなら、ハチなんてあだ名はつかない。
そんな事をできるなら、もうそれはハチじゃない。
「……久喜宮 兵吾、君」
「はい」
数日後、私は更なる衝撃を与えられる。
あの時ハチが呟いた言葉は名前だったのだ。
そして、ぴったりとあてはまる彼が弓道部の新入部員の名簿に名前を連ねていた。
ハチも一緒の部活なんて、天上の人々の暇つぶしかなんかだろうか。
彼は私を覚えていないようだが、冷や汗が止まらないまま次々と名前を呼んでいくと、ハチの番になった。
「竹部 八尋」
「はい!」
恐る恐る彼の方を見る。
あの瞳が、ハチを見ていた。
口元がかすかに動いている。
でも、それをハチが見返すことはなかった。
呼び終わった名簿を持ったまま動かない私を、同級生が心配していた。
それくらい、私は神経をハチと兵吾君の奇跡に持っていかれていたのだ。
「あんた、いいわけ」
「へ?」
部活を終えて帰る道すがら、思っていたことを問いかける。
「久喜宮君、友達だったんでしょ。声かけたりとか……」
「いいんだ」
そう言って笑うハチに詰め寄って、もう一度問いかける。
「でもあんた、あれだけ気にして……」