さあ、行きましょう
しばらくして、市之助は冠木門を通りすぎる。
冠木門は二本の柱に横木を渡しただけの簡素な門だ。
吉田松風の生家の杉家の家格は無給通であるので、このような門になる。貧しいからではなく、身分によって定められているからだ。
庭には木が多い。
松風が植樹を趣味としているためである。
常緑樹以外は、葉をすっかり落として裸の枝を寒々とした空へと伸ばしている。
冬枯れの光景である。
だが、その木々を松風が植えていた姿を思い出し、市之助の心は少しなごんだ。
前方には塾舎がある。
その背後に杉家が見える。
塾舎はもともとは杉家の小屋であり、それを補修して松風の教場としたのだった。
市之助は塾舎のほうに近づく。
ふと、塾舎からだれかが出てきた。
「あ」
つい声をあげた。
向こうも気づいた。
「イチ!」
そう呼んで、顔を輝かせる。
素朴な顔立ちに、天真爛漫な笑みを浮かべて、駆け寄ってきた。
品川嘉二郎である。
この村に住む塾生のひとりだ。
「カジ、来てたんだ」
「うん」
「他にはだれか来てる?」
塾舎はひっそりとして、人のいる気配は感じられない。
「ううん」
嘉二郎の表情がわずかに陰った。
「だれか来るかと思ってしばらく掃除とかして待ってたんだけど、来なかったから、帰ろうとしてたところ」
「そうなんだ」
「でも、ちょうど良かったよね! すれ違いにならなくって」
ぱっと嘉二郎の顔がまた明るくなった。
楽天家だと市之助は思った。
うらやましくなる。
自分はどちらかといえば物事を悪いほうに、深刻に考えすぎる傾向がある。取り越し苦労も多い。
嘉二郎はその明るさがまわりも明るくするし、案外、腹も据わっている。
そういえば、と市之助は思い出す。
松風は江戸送りになる直前、六巻にわたる著書を嘉二郎に授けて保存を依頼した。
嘉二郎なら、なにがあっても、たとえ自分の身が危うくなったとしても、決して、著書を火中に投じることはない。
そう松風は判断したのだろう。
それぐらい嘉二郎を信頼しているのだろう。
うらやましい。
「ここじゃ寒いから、中に入ろうよ」
嘉二郎はほがらかに提案した。
「うん」
同意し、市之助はふたたび歩きだした。