限り無く夢幻に近く
心細さは消えていた。迷いと揺らぎで覚束無いおぼつかなかった足取りは、今や真っ直ぐと歩けるようになっていた。
いくつも扉をくぐる。思い出すように廻っていく。冬の部屋を、秋の部屋を、夏の部屋を、春の部屋を。あんなに長かった道が今は短かった。果てなく何十両も来たはずの列車が、窓の外今は確実に、最後尾までの車両が数えられた。
扉を開ける。座席の中程に放置されている何かが目に入った。ぽつんと置き去りにされているのはカバンだ。どうやら一番初めに転寝した車両のようだった。それを見て、何も持っていなかったことに今更ながら気がついた。俺は本当に、全てから逃げようとしていたんだ。
カバンと共にあいつの姿も探したが、やはり彼はいない。けれど不安はない。約束は残ってる。今度こそ忘れないようカバンを肩にかけて。
そして、開かなかった扉の前に立つ。
大丈夫。今は開くはずだ。だって、俺は決めたのだから。ドアに手をかけて、ゆっくりと深呼吸する。そして、力を入れて捻った。
ゆるやかに、それでいて何の抵抗もなく扉が開く。それに後押しされて列車の中を急ぎ抜ける。
始めは早足に、次第に、感情に負けぬよう駆け出して。
最後尾まであと三両。
黄昏が青空に変わった。更に速度を上げて、次のドアを目指す。
あと二両。
田園風景が消え、海原の真ん中を走っていた。雲ひとつない空の下、海と空の境目は存在しなかった。
あと一両。
半ば倒れ込むような勢いで扉を開ける。
そして立ち止まる。光景に気圧されて足が止まった。そこには、今までとは違うものが並んでいた。
ブラインドの下ろされた車内は薄暗い。食堂車両に似たその部屋にはテーブルがたったひとつ。真っ白なテーブルクロスと、備え付けの椅子が四つ。
テーブルには大きなバースデーケーキと、その上に輝くオレンジの灯火。取り囲む、周りに並ぶ無数のプレゼント。それから、部屋いっぱいに広がる写真の山。
「これって……まさか」
火がゆらゆらと薄闇を揺らした。プレゼントのひとつに手をかけてみる。箱の中は空だったけれど、そこに何が入っていたのか、俺には分かった。知っていた。見覚えのある包装紙。
その証拠に、中には一枚のメッセージカード。
“誕生日おめでとう”
ああ。これは。俺の六歳の誕生日。小学校に入学して初めての誕生日だ。
そしてこれは、中学校一年生の誕生日。あれは確か、幼稚園のときに貰ったランドセル。サッカーボールがプレゼントだったのはいつだったろう。手作りのケーキが出てきたのは、確か。
それから、写真の山に目を向ける。どの写真も見覚えのある光景だった。忘れられない光景だった。
運動会。学芸会。入学式。卒業式。お花見。夏祭り。海水浴。紅葉狩り。天体観測。誕生日。お正月。クリスマス。スキー研修。修学旅行。体育祭。それから、初めて演奏した文化祭ライブ。どの写真も、一人で写っているものなどない。いつも誰かが、家族が、友人が、仲間が傍に居た。
今までのたくさんの思い出。俺が向こうで築いてきた大切な一瞬の数々。唯一足りないのは――
瞬きの合間に火が消える。俺はロウソクに火が灯るよう念じてみた。すると、橙色の暖かい光が再び揺らいだ。
やっぱりそうだ。この電車は全て俺の意思で動いている。
いつまでも駅に着かないのも、時間が止まったままなのも、街が消えてしまったのも、全て、俺の。
逃げてるだけじゃないか。
ああ。そうだよ、アキト。俺はいつも逃げていたんだ。悩むことすら怖れて。全てを投げ出そうとしてきた。
恐かったんだ。降りることが。
また君を置いていくことが。
一緒に居られることが堪らなく嬉しかった。願望だった。叶わない願いだった。年甲斐もなくはしゃいでしまった。
だからきっと、一番後ろの車両には。
そして、最後尾。
世界の果て。
最後の扉を開ける。もう誰もいないはずの列車なのに、その車両には誰かが待っていた。誰か?誰かなんて、今更の話だ。
俺は酸素を肺一杯に取り込んで。ゆっくりと彼に近づいていった。
最終車両にも運転席は存在する。電車は前ばかりに進むのではなく、終着駅に辿り着けば始発駅目指して走り出すからだ。また、始まりという終わりに向けて。
こちらの運転席にはちゃんと座席とハンドルがついていた。それでも腰掛けているのは運転士ではない。
そこに居たのは。
そこにいたのは、ずっと一緒だった高校生姿の少年。けれど今はその不可解さに気付くことが出来る。それでも、俺は、その名を呼ぶ。
「ツカサ」
懐かしい高校の制服を着た、高校時代の自分そっくりの彼。
けれど今は、その存在の名前を知っている。先刻まで俺が、しきりに呼んでいた一人の人間。
赤茶色の髪、人懐こい笑みで彼は頷く。俺に向けてくれた懐かしい微笑みのまま。
「気付いたんだね、ツカサ。いや――アキト」
そう、自分と同じ姿をした、幻の名前を。