限り無く夢幻に近く
カンカンカン。
何度目かも分からない踏切を通過する。警鐘に似た赤い色と音が耳元で鳴り、遠ざかっていく。睨み合うような沈黙。夕陽がアキトの足許に影を縫い付ける。
「僕は誰かって、君は言ったよね」
幾らか戻った静けさの中に、アキトの穏やかな声が落ちて弾む。
「まだ思い出さない? 自分が誰か、どうして此処に居るのか、見当もつかない?」
「何言って、」
動揺が広がる。耳の奥がじりじりと鳴り、睨み返したアキトの顔が嫌にはっきり黄昏の中に浮かんだ。
「珈琲が苦手なのは誰? 一緒に紅葉狩りに行ったのは、縁日で手を繋いだのは誰だったと思う? 左利きなのは? ねぇ、 。何度も変だって思ったよね? 僕が誰かが分からないって気付いた。なのに、自分が誰かは分かろうとしない。それって凄く変なことじゃない?」
彼が呼んだはずの俺の名前、それだけが上手く聞き取ることができなかった。
耳鳴りのせいかもしれない。どくどくと脈打つ血液のせいかもしれない。
それから一呼吸。意を決したように、アキトが俺に尋ねる。
「ねぇ、この電車を走らせてるのは誰?」
足許が大きく揺れる。
何を言っているんだ?
いや、何を言っているのかは知っている。知っている、知っているはずなんだ。これは、初めて想うことではない。
食堂車の珈琲、幼き日の思い出。利き腕。アキトを名乗る誰か。ツカサ。ずっと一緒だったはずの誰か。沢山の矛盾、疑問。
違う、じゃあ俺は誰だ?
俺を証明するものは何か。証明してくれる人は。
違う。自身が分からないはずがないのに。
「俺は、」
それ以上何を言おうとしたのかは自分にも分からない。ただ単に弁明を並べようと、切り出した言葉に繋がる鎖が無い。
「ツカサ。よく聞いて」
今度ははっきりと、その名前を口にした。斜陽に負けない強い眼差し。忠告や説教に似た柔らかい声。
「君は逃げなくていい。逃げてばかりじゃいけないんだ。君は君だ。楽な道は、それなりの未来しか待っていない」
「それでもいい。それなりでも、今が苦しくなければ後悔しない」
「本当に?」
「本当……だ」
自分のことなのに自信がなかった。喉がつかえたのか上手く発声出来なかった。その間もアキトは僕を追い詰める。否、説得しようとしている。
「全てから逃げるうちに、些細なことまで少しずつ悪くなる。やりたいことも満足に出来なくなる」
「やりたいことなんて特にない。しいて言うなら気楽に生きたい」
「苦しみの全てが後悔することだと思ってるの?」
「違う!」
叫んでしまってから慌てて口を覆う。声は、自分の予想以上に車内に響いた。
「……悪い……」
「いや。僕のほうこそ」
気まずい沈黙が流れた。俺は彼に背を向けて、次の扉を目指そうとした。そしてわざと取り成すために明るい声で応える。
「やめよう。もういいじゃないか、どうだって。どうせ降りれないんだ。俺はもう少しお前と一緒にいたい」
「……そうか。そうだね」
一体何を納得したのだろう。彼のその台詞が諦めの響きをさせていたことを、嘆いた。