ひめごと
なぜこのときされる側にまわることを嫌だと感じたのか、それは今でもよくわからない。この体験のせいで、後に私は男性とつきあったとき、ひどくそういう雰囲気になることを怖れた。もしかして、自分は女でありながら、セックスの際に女性的な役割を果たすことを受容できない性癖の持ち主なのではないかと思ったのだ。結局、これまでたった一度だけおつきあいをした男性とはそういうことは無いまま、ごく短い期間で別れてしまった。だから20歳になった今でも、私は心の奥では自分に疑問を抱いている。
けれど、その反面こうも思う。多分あのひとが相手だったときが特別だったに違いない、と。あのひとと私の間には、性別の壁を越えて互いと寝てもいいという意識が言葉なくして通じていた。それは本当にただわかったのだ。それと同じように、どちらがどういう役割をするかということも、ただ理由なく決まっていたのだろう。他の女性同士の場合は知らないが、私たちがするときはいつもする側される側の役割分担があった。そしてされる方にまわるのはいつもあのひとだった。
あのひとは、明らかに受け身になるほうが向いていた。他人の腕の中で、自分の魅力を最大限に発する術を心得ていたとしか思えない。あれは多分一種の才能だ。そういう能力だ。同じ女でも、私にはできない。いや、同じような声をだし、同じように身体をくねらせたとしても、ああはならないだろう。じゃあなにが違うのかというと、もう素質やら技巧やら経験なんかの問題ではないのだと思う。存在が違うのだ。一個の生命体として、私とあのひととはもうまったくの別物なのだと、そうとしか考えられなかった。
だから私はあのひとを抱くときはいつも軽い絶望にも似た思いを抱いていて、そのせいか常に異様なほど冷静で、自分でも驚いたくらいだった。もっとも私はあのひとに恋情を覚えていたわけではない。だからそのぶん行為にのめり込めなかったとしてもおかしくはないが、そんな理由では足りないほどそういうときの私は昂揚しなかった。私はただ機械的に彼女の希望に沿って動いた。それで彼女が悦んでいるのを見ても、安心はしたが興奮はしなかった。肉体的に腰のあたりが疼くような熱を覚えたことはないではなかったが、頭の中は奇妙に冷えていた。
あのひとが触れられることに長けているなら、おそらく私はあのひとに対してのみ、触れる才能があったのではないかと思う。
私は行為の際中、よく少し離れた場所から見た自分達の姿を想像した。そしていつもあのひとの姿態に舌打ちしたいくらいの美しさを認め、翻って自分を見たときに、女としての圧倒的な敗北感を感じた。それはあのときと同じだった。桜の下にいる他の少女達とあのひとを見たときと同じだった。あのひと以外の娘たちは、全て少女の皮をかぶった蛾の屍体だ。あのひとだけが花なのだ。存在が違うのだ。私は蛾だ。私も蛾だ。凡庸の例に漏れずに私も醜い蛾であることを、腕の中のあのひとは語らずとも私に自覚させるのだ。しかも私の醜悪なところは、生きた蛾であることだ。なぜ私が死骸でないと言えるかというと、それはあのひとと触れあっているからだ。あのひとの上で蠢いてるのが見えるからだ。麗しき花に吸い付いて醜き己が生を主張する蛾、それが私だ。もしもあのひとに触れていなければ、私とて死骸のひとつに過ぎないのだ。
なぜこんなことを知らねばならぬのか。知らないほうがよかった。知りたくなかった。
この世に花のあることを知らなければ、蛾だろうが芋虫だろうがそれなりに幸せだったはずだ。己を蛾だと知ることがなければ、己の醜さを知ることもなかったはずだ。よしんばそれを知ってしまっても、周囲皆等しく蛾であったなら、それもよしと思えたはずだ。同じ次元で競いあい、それなりに己を磨くこともできたであろう。もしも花の存在を知らなかったなら。外見の美醜や、それにもまして重きをおく性格の善し悪しなど、蛾のよきものを判断する基準の全てを超越した存在を知らなければ。
蛾は可愛くても所詮蛾だ。性格がよくても蛾は蛾でしかないのだ。存在がそうなのだから。しかしそれと同じ空間に花が咲いているのはどういうことだ。違う存在が生物学的に同じものと判断されて、同じ空間に両立するとは一体どういうことなのだ。花は花だ。醜くても花だ。性格が悪くても花だ。存在がそうできているからだ。花はどれほど衰えても蛾にはならない。蛾はどれほど高みに昇っても、蛾としての生の間は花には変化しない。 そう、花の存在を知る最大の苦痛は、蛾である自分をみじめに思うという思考回路ができあがることだ。
これはもうどうしようもない。ただ知ってしまったことを酷く後悔するしかできない苦痛だ。なんの努力もできない。なんのなぐさめもきかない。よそから別な蛾がやってきて、僕は君もいいと思うよなどと言ってもひとつの効果もあがらないだろう。なぜなら私という蛾は、花を羨ましいと思う性質の蛾だからだ。蛾のなかには、花より蛾の方がいいと思う者もおそらくいるだろう。でも私は違うのだ。私はそうは思わないのだ。蛆よりは蛾のほうがいい。でも花というものがあるならば、蛾より花になりたかった。そういう思考をもっているのが私なのだ。その判断にはなんの理屈もない。そこには他の蛾たちを全て納得させられる論理も価値もないだろう。ただ、私はそうなのだ。私はそう思うというだけなのだ。
そして花の美しさを認めれば認めるほど、その存在の違いを知れば知るほど、私は蛾であり蛾でしかない自分に絶望するのだ。それは努力やなにかでどうにか届くような願望ではなく、ただ諦めるしかないことがなにより辛かった。
なぜだろう、と私は何度も思った。
なぜ、この花はよりにもよって私という蛾のまえに現れたのだろう、と。
もしもこれが私ではなく、蛾としての己を感受し、なお誇りに思うようなたちの者であったなら、互いに互いの領域を侵すことなく平和にいられたのではないだろうか。花の貴女も綺麗だけれど蛾のあたしだって可愛いもんだと思えるような、そんな相手に寄り添ったほうが、このひとにとって良かっただろう。そして私にとっても。
しかし私はやがて気づいた。この花が私を選んだ理由などほかでもない。私のこの性質のためだ。彼女は己の存在の美しさを、その価値を、最大限に理解するものを傍に許しただけなのだ。彼女は花である自分を知っていた。それを誇りに思っていた。そしてそんな自分の素晴らしさを十全に理解することのできぬ神経の愚鈍な蛾を相手に、己の美をさらすことを望まなかったのだ。彼女が花であることに気づかぬものに、花びらをむけることを無意味だと悟ったのだった。美術品が優れた鑑定士の前でその価値を見い出されるように、彼女も彼女の魅力を真に理解するものによって、己自身の誉れを確固たるものにしようとしたのだった。