ナイトヴァーミリオン
かろうじて反射して映る己の姿をじっと見つめ、頼りなげな体つきに肩をすくめた。
あれから、二年。
成長期であるはずなのに、見た目の変化はほとんど無い。あえて言うのなら、小さめな顔の半分を覆い隠す眼帯が必需品となったことと、黒い髪を茶色に染めたくらいだ。
颯士は手を伸ばし、鍵を開ける。
そのまま窓を引き開けると、春の暖かい風が、街の喧噪と一緒に部屋へと吹き込んできた。
鼻孔をくすぐる甘い匂いは、隣のビルを突き破って成長を続ける巨樹が付けている、花の蜜だろう。名前はわからないが、白い花弁が日射しを反射して、ひどく眩しかった。
颯士の家族を奪った、《帝都大転移》から十四年余り。
突然、なんの前触れもなく現われた高度文明社会は街を丸ごと飲み込みんで、そこに住まう人々の世界観をまるきり変えてしまった。
異世界と現世界が、唐突に融合してしまった一連の事件は、《極所大転移現象》と言われ、日本だけではなく世界各地で起こった。
世界規模の混乱は国交を途絶させ、いったいどれほどの国が存続しているかは分からない。分かったところで、スラムに身を置く颯士にはなんら関係のないことではある。
異世界と現世界の狭間。
グレーゾーンであるスラムには、様々な人間がいる。混沌とした、新世界。それが颯士の知る世界だ。
「おはようございます、颯士」
足音もなく部屋に入ってきた長身の男に、颯士は振り返って「おはよう」と返した。
綾瀬緋一廊。
名前こそ、かろうじて日本人のようではあるが、偽名だろう。整った造作と緋色の目は、異世界……ストレンジアである証拠だ。
そんな彼が、なぜ日本人の名前を使っているかは分からない。
二年前、死にかけていた颯士に言った、「探していた」という言葉の真意も、実はまだ、まだわからない。
颯士には、面と向かって緋一廊に問いかけることができなかったのだ。
寡黙な緋一廊の真意を聞きだしたら最後、心地の良いこの居場所が、無くなってしまうかもしれない。そんな不安が、いつも背後につきまとうからだ。
深く残った傷だと、颯士は思う。
二年前、開発途中の新麻薬《愚者の王》を手渡し、自分への思いの深さを示せと告げた七月冬馬との決別の始まりは、彼の真意を知ろうとしたからだ。
もっと近づいて、ともすればすぐに千切れてしまいそうになる絆を強く結びたかった。 だが。そのいじらしい行動の結果が、これだ。
二度と消えないだろう、傷跡が残る左目を、颯士は無意識になぞった。
「まだ、痛みますか?」
青鈍色に色を変える髪を流し、緋一廊が歩み寄ってくる。狭苦しい部屋でも、長い手足は何にも阻まれることなく、颯士を目指して機敏に動く。
最近はあまり見ることがなくなった、野生の獣のような身のこなしは、思わず見ほれてしまうほどに美しい。
「ばーか。痛いわけ無いだろ、癖だよ。つい、触っちまうんだ」
「そうですか。なら、良いのですが」
並ばれて立つと、どうにも気後れしてしまう。つい、視線をそらした颯士は、髪に触れてくる緋一廊の指の感触にどきりとして、唇を軽く噛んだ。
長い指はそのまま頭の形をたどり、頬にまで下りてくる。
寝起きで火照る体には気持ちが良い、ひんやりと冷たい体温は、ついさっきまで水に触れていたからだろうか。
「申し訳ありません、颯士」
「な、何だよ。いきなり」
はっとなって、颯士は緋一廊の手を掴んで引き離す。
「二年前。もう少し早く、あなたを見つけることができたのなら、こんな傷が残らずに済んだはずです」
「今更だ。何を言ったって、この傷が消える訳じゃないし、そもそもお前のせいじゃない。俺が馬鹿だった、それだけだよ。気にするな」
「しかし」
掴んでいた手を離す。何か言いたげに緋一廊が口を開くが、言葉が紡がれるよりも先に、颯士は切り返した。
「で、何の用?」
「朝食を、用意しています」
「そうか。ありがとう、緋一廊」
にっ、と笑って見せ、颯士は緋一廊の気配を背後に感じながら、リビングに続く扉を開く。ほどよく焼けたパンの香ばしい匂いが、鼻孔をくすぐる。
「良い匂いだ」
「移動市場が来ているようで、良質の食材が格安で手に入りやすくなっているんです。すべて、朝市で手に入れたものですよ。食べて、一息ついたら街に出てみてはどうでしょう。きっと珍しいものが見られます」
たしかに、滅多に見ることのない生の素材が、皿の上に沢山盛られている。
水気をたっぷりと含んだ、柔らかそうな生野菜の艶やかな緑色は、なんとも魅力的だった。
電力の乏しいスラムでは、長期の保存が利く乾物や穀物ばかりの、質素で彩りのない取り合わせが常であり、見た目から楽しめる食事をとるのは、酷く難い。
食の楽しみは、特区に隣接して存在する、富裕層のみの特権と言ってもいいだろう。
それでも、食べるものがあるだけマシ。といえばそうなのだろう。贅沢には憧れるが、質素な食事に悲観的なわけでもない。
スラムでは、その日食べるものさえ困っている人間は沢山存在している。保存食ばかりでも、空腹に蹲ることがないのは幸福なことだ。
颯士が手を出すより先に、一歩前に出た緋一廊が椅子を引く。「どうぞ」と促されて、気恥ずかしさを隠して席に着いた。
小さい、備え付けの机には一人分の朝食がのっている。
緋一廊が向かいの席に着くのを待ってから、ナイフとフォークを手に持つ。「いただきます」と呟き、鋭い切っ先をトマトに突き刺した。
薄側がぱきり、と小気味良い音を立てて裂ける。口いっぱいにほおばると、しみ出してくる酸っぱい汁に、舌を刺激される。後に残る微妙な甘味が、じつにうまい。
「新鮮だな! おいしいよ」
「どうぞ、他のも食べてください」
促されるまま、颯士はナイフとフォークを動かす。緋一廊は微笑を口元に浮かべ、じっと食事を見守っている。彼の手元にあるのは、一杯の水だけだ。
節約している、と言うわけではない。
一緒に暮らすようになって随分立つが、颯士は、緋一廊が何かを食べている姿を見たことがない。
四六時中一緒にいるわけではないので、見ていないところで食べているのかもしれないが、颯士が知る限り、緋一廊は水以外のものを口にすることはない。
ストレンジアだから……と言うことではない。異なる世界からやって来たとはいえ、姿形はほとんど地球人と一緒であり、食べもすれば飲みもする。
生活環境も、生殖器官も近く、人種の区切りがないスラムでは、二世(ハーフ)や三世(クォーター)も珍しいものではなくなっているほどだ。
緋一廊は、特別なのだ。他とは、まるで違う場所で生きる存在だ。
しかし、それは自分も一緒だと、粒の形が舌に残るコーンスープを飲み下す。
(むしろ、化物は俺のほうだ)
決して人前では取れない眼帯の下には、人ならざる爪痕が残されている。
(俺はもう、人間じゃ……ない)
二年前、緋一廊は間に合わなかった。
水が注がれたグラスに、すっ、と伸ばされる緋一廊の手。袖口から僅かに見える色白の皮膚に、みみず腫れのような赤黒い醜い傷跡が見える。
化物と化し、理性を失った自分が残した傷跡だった。
3
昼を過ぎ、日射しはだいぶ優しくなった。
作品名:ナイトヴァーミリオン 作家名:南河紅狼