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ひらきこもりの方程式

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  * * *



 僕は考える。

 例えば一本の蜘蛛の糸が地獄に垂らされたとして、それに即座に縋り付けるのは地獄に身を置いてなお、一心に救われるのを求めることのできる強靭な魂の持ち主のみではないのだろうか。苦界から逃れたい気持ちは誰にでもあろう。だがしかし何の前触れもなく突然天から降りてきた一本の糸、そんな儚いものを信じて、己のすべてをゆだねることができるか?少なくとも僕にはできない。これで助かったとばかり喜びいさんで上る途中で糸が切れたらどうなる。これで苦しみから逃れられると思い込んだ次の瞬間に、また同じ地獄に舞い戻らされたら。およそ人間の意識のうちでぬか喜びほど辛いものはないのではないだろうか。

 僕は考える。だからもしも僕が蜘蛛の糸に縋るとしたら、それはその糸がちゃんと切れずに天まで続いているということを確認できてからだ。誰か自分でない者、自分と同じく地獄でのたうちまわるしかなかった誰かが先にその糸を辿って苦界から抜け出したという実績があれば。それなら僕だっていけるのではないかと思う。現状を打破することが、できるのではないかと思うのだが。

 だが悲しいかな、現実はそううまくはいかない。


 「ずっと前から、好きだったの。…斉木君のことが」


 そもそも糸が降りてきたとして、それが天国へつながっているとは限らないのだ。



  * * *



 斉木君と多少なりとも仲良くしていただくようになってから、彼女の僕に対する態度も変わってきた。少なくとも、まるでそこに存在していないかのように扱われることはなくなった。朝に会えば挨拶を交わすし、夕には別れの言葉を告げることもある。一般的な恋愛の進行に比べれば極めてささいな進展かもしれない。むしろようやくスタート地点に立てたという程度かもしれないが、以前に比べ彼女は僕の存在を確かに認識している。

 それが苦しいのだと、どう説明すればあの好漢に分かってもらえるのだろう。

 斉木君は僕が彼女と言葉を交わすようになったことを喜んでいた。彼女と言葉を交わすたびに斉木君が良かったなと他の人間にわからぬようにだが祝福してくれる。そうした彼の微笑みやら手での合図などには、意味はわからずとも他人に僕と斉木君の仲が良いのだと思わせるものがあるらしかった。それで彼女は安心して僕にまた声をかける。斉木君の友人という後ろ盾が、僕の人格を保証すると言わんばかりにだ。おかしな話だが、彼女との仲が深まることは斉木君との親しさの度合いが深まることと同義だった。もちろん親友などという重厚なつきあいでないことは誰の目にも明らかだったろう。けれどやがて斉木君が僕に一目置いているという風に見られるようになるまで、そう時間はかからなかった。

 それが重いのだと、さすがに口に出していうほど人間が出来ていないつもりはないのだが。

 自分でも根が暗い、暗すぎると思うのだけれど、僕は次第に斉木君と関わることが辛くなった。そもそも彼と僕とは全く別の世界の人間なのだ。急に存在感が増した自分を僕は持て余していた。

 斉木君と親しいようだからと、彼の他の友人たちが僕も話の輪に加えてくれようとすることがある。だが僕はその集団にひきいれられた所でなんら共通の話題を持たないのだ。言葉のキャッチボールさえまともにできない。永年文学作品に親しみ、書を唯一の友として生きてきた僕と、生まれた頃から書を捨て街にでていたような若者達とでは、使う言語が違いすぎた。彼らの話している言葉は同じ日本語とは思えない。話す内容も単語の意味もイントネーションの違いも理解できない。あれはネオ・ジャポンの言葉だ。あるいは僕が古語の使い手なのかもしれないが。それでもかまわない。伝説の古文書の言い伝えを読み解ける者が必要とされる日がくるまで、僕は自らを洞窟にでも封印していたい。

 その気持ちは対彼女の場合でも変わらない。

 彼女に存在を認識されるようになって、浮かれていたのも最初のうちだけだ。そこにいると気づかれてしまっては、もはやいつものように影から見つめることもできないし、偶然を装って毎日帰り道を同じくすることもできない。そうした『同じ空間に居つつひとりで想いを馳せる時間』と、彼女と数語とはいえ直に挨拶などを交わすという僥倖。

 自分にとって幸せなのは圧倒的に前者だ。

 一般的な感覚で言えば、後者の方が進展していると思うのであろう。彼女に近づいたと感じるのだろう。だが、僕のように現実の生活よりも脳内世界の安息を好む生き方をする者にとっては、直の挨拶など刺激が強すぎた。しかも日々彼女とわずかな言葉を交わすという経験を積み重ねた結果、確かに以前より彼女のことがわかるようになったのだ。

 それは彼女と僕の間に、この先挨拶以上の関係が生まれることなどないということだ。彼女が僕に声をかけるとき、彼女は僕が感じる程の何も感じてはいない。そこにあるのは僕への友情ですらない。わかっていた。そんなことは。彼女にとって僕は、『斉木君と多少親しいひと』という程度の存在なのだ。

 そんなふうに認識されるくらいなら、幽鬼のごとく目に見えない存在でいた方がましだった。そんな風に、他の男を(仮令それが僕など足下にも及ばぬ殿上人であったとしても!)介してしか彼女の心に入れない人間であると思い知らされるくらいなら。ずっとひとりで、一方的に想い続けていた方が、少なくとも僕の心は平穏のままでいられた。

作品名:ひらきこもりの方程式 作家名:蜜虫