ひらきこもりの方程式
今朝登校すると、信じられないようなことが起こった。
「あ、文谷(ふみや)くん。おはよう」
なんと彼女が僕に挨拶したのだ。
僕は固まった。彼女と同じ教室に通う事二年と数ヶ月、そんなことははじめてだった。彼女が僕に声をかけたことははじめてだった。そもそも彼女が僕の名前を知っていた事もはじめて知った。その衝撃はあまりに大きく、僕は挨拶を返すのも忘れて呟いた。
「知ってたんだ」
「え?」
「なまえ。じゃない、みょうじ。僕の」
いつもより異様に低い声が出た。まずい、これでは不機嫌なように聞こえてしまうではないか。瞬間的に指先が冷たくなるとほぼ同時に、彼女が笑った。
「やだ、知ってるよ。あたりまえじゃない。同じクラスなんだもの」
名前だってちゃんと覚えてるよ。まなぶくん。文谷学くんでしょう? それで、徒名がブンガクくん。ね?
彼女は笑ってそう言った。その笑顔に、僕は頭の中身が全部後方に吹き飛んだような感覚にとらわれる。
「僕も知ってる」
「え?」
「光田さん。光田美咲さん。…おはよう。…ございます…」
彼女がまた、はじけるように笑った。おはよう!おはようございます!そう言ってはしゃいだ声をあげた。
ーー 死にたい。
今すぐこの場で絶命したい!
明らかに挙動不振に陥った僕の眼球が、ふと彼女の後方にいる人物をとらえた。斉木君。教室の窓から入る光を受けて、彼は爽やかさの具現のようだった。他の友人と話していたのだろう彼は、しかし明らかに僕を見とめてその手をあげた。けして大げさでない自然な笑みとともに、長い指がひらひらと振られる。彼女も僕の視線を追って(僕の目が何を見ているか彼女が気にしただって!)首をそちらに向け、斉木君を見た。学生の朝だ!僕は唐突に理解した。健全な高校生達は毎朝このようにして学び舎での一日を始めんとしていたのか!
「なに、お前、いったいどうしたの」
突如後方からかかった声と同時に、僕は背中に衝撃を感じた。後方といえば先ほど僕が頭の中身をぶちまけてしまった方面である。きっと僕の脳漿などを浴びてしまった不幸なる人物の抗議に違いない。反射的に詫びの言葉を口から吐き出しつつ、どついてきた相手の方を向く。
「おなごと口なんぞ利きよって、舌が溶け落ちるぞ。おまけにやんごとなき御方から手を振られるとか…かえって自分の存在の惨めさに気づかされねえか、朝から」
マニアだった。死にたい。今すぐこの場で絶息したい。
「ああ、おはよう」
「いやいやいやいや、おはようございます。でなに?」
「何って」
「いや死ねよ」
「死にたいよ、僕だって」
なんなんだよ昨日からキミはよォ、とマニアが胡散臭げな表情を作って僕を見る。この男の顔芸は確かに才能だ。そしてこの男の状況判断力にもまた秀でたものがあるのだ。認めたくはないが、確実にマニアは僕を理解している。彼の一言によって、雲を貫かんばかりに浮き立っていた僕も一瞬で地に足をつけることができた。死にたい。今すぐあの窓を割って宙に飛び出したい。
マニアと阿呆なやりとりをしている間に、彼女はもう僕の前から遠ざかっている。
そして件の色っぽい唇の娘とともに、今の流れからさりげなく斉木君ら男子生徒との会話に加わっていた。
ーー やんごとなき御方とはよくぞ言いたる
その絢爛たる存在のおわしますところ
彼の人の後光によりて、不毛の地にも緑が芽吹き、盲人も目を開きたり
斉木君とほんのわずか関わりを持ったことが知れるだけで、彼女の目に僕という存在がうつるようになろうとは。マニアの言う通りなのだ。朝からなんと己の存在の卑小さを思い知らされたことだろう。
今朝初めて彼女に挨拶されたことにより、僕ははっきりとわかったのだ。昨日までの僕は彼女にとって幽鬼のごとく、あるかもしれぬが目に見えぬ存在であったことに。
作品名:ひらきこもりの方程式 作家名:蜜虫