ひらきこもりの方程式
* * *
ーー ねえ君、夏だね
蝉が鳴いているね
暑いね、嗚呼、とても暑いね
けれど僕の額に浮かぶのは冷や汗だ。
斉木君というのはいい男だ。誰にもわけへだてなく優しく、場を盛り上げるのが上手い。僕のような社交的とはとても言いがたい人間にも呆れず声をかけてくれる、それはよいのだ、彼はいい人間だ。
けれど僕のことはこの際放っておいてもらいたかった。特に僕が彼女に恋しているというあたりのくだりは、念入りに無視してもらいたかった。できれば忘れてほしかった。
なのに僕は今放課後の教室に居り、斉木君の隣で所在をなくしている。しかも目の前には彼女が座っている。その横には彼女の友人の、あの唇の肉感的な娘がいて、顔に浮かべた疑問を隠さず僕を見つめている。その表情は疑問ではなく不愉快を顕わしたものかも知れない。なんであんたがここにいるのかと言わんばかりのその視線に、僕は逃げ出したくなる。
ーー 『俺、協力するよ』
そう斉木君は言ったのだった。僕は仰天した。斉木君と僕は特別親しいわけではない。
その彼に自分の恋情を知られただけでももう学校に来たく無いと思うような僕なのに、このうえなにかしら介入されては堪らない。世界が終われば良い。でも斉木君は常と変わらず爽やかで、僕は遠慮することすらままならなかった。(彼が協力だって?)全く意味がわからなかった。斉木君が僕と彼女の橋渡しをするなど僕の妄想にすら浮かばなかったのに、現実は唐突にストーリィを進めてしまうから困る。
少し洒落た恋愛小説なら、こんな展開にはしないものだ。一体昨日の僕に想像できたろうか?明日はいつものように少女を待ち伏せるのではなく、差し向いで硬直するはめになるだなどということが。
教室の隅から、マニアがこちらの様子を窺っているのが見えた。奴は僕がどうして斉木君や女子達と輪になっているのかわからずに訝しんでいるようだった。マニアも帰宅部であるのだからいつも通りさっさと帰ればよいのに、じろじろと遠慮なくこちらを窺っている。女子達の後方にいるものだから、僕とは目さえあう。おまえなにをやってるんだと言わんばかりのその視線に、僕はいっそ死にたくなる。
しかもそんな気分に追い討ちをかけるかのごとく僕を追い詰めるのは、この集団にはとりたてて会話の種がないということだった。つまり僕たちは、先刻から特に言葉を交わすこともなくただ共に居るだけなのだ。二言三言女子達と斉木君の間にはやりとりがあったけれど、それも尻切れに終わってしまった。
原因は分かっている。僕がいるからだ。普段この面子と会話することなど皆無と言っていい僕が、無視するには近すぎる位置に入っているからだ。いや、僕がただいるというだけならば、彼らは僕を無視してお喋りに興じただろう。問題は斉木君がわざわざ僕をつかまえてこの席に座らせたことだ。だから僕は今このグルウプに、一応属していることになる。
少女らは、僕がなにか言うものだと思っているらしい雰囲気がある。
しかし僕にはとりたてて話すこと等無い、特にこんな、喧噪の名残りを留めた放課後の教室なんかでは。
そもそも僕は、彼女に言いたいことなどないのだ。
「斉木、部活行かなくていいの」
不自然な沈黙に耐えかねてか、彼女の友人がその唇を開いた。
「うん、三年はどうせもう引退だし。夏、負けちゃったからな」
「惜しかったよね、バスケ部。あたし達も応援に行って見てたよ。美咲なんて最後は泣いちゃってたよね」
少女がそっと首を傾けた。
彼女がバスケット部の応援に行ったことは知っていた。その話をするたびに、彼女が泣いたことをまわりの娘達が声高に喋っているのを、いつか聞いたのだ。
再び沈黙が訪れた。
僕はどうしようもなくて斉木君を見た。彼は一体僕をここに据えてどうしようとしたのか。けれど斉木君はあの爽やかな笑顔を返してくるだけなので、僕は非常に困った。
困って、彼の目の色を読み取ろうと内心躍起になったとき、ふと理解した。
最悪だ。
斉木君は、僕が彼女と話せないなどとは思っていないのだ。彼はなんだか知らないが僕という人間を買い被っている。そうでなければ人間全体を買い被っている。おそらく斉木君は恋しい異性の前では口がきけなくなるというタイプの人間がいることなど想像したことすらないのではないか。彼にとっての恋愛とは、まず直に話をして気があうようなら口説くという手順が全てなのではあるまいか。本当にそうなのかもしれない、斉木君のような男子は、惚れた女と話すことがない、いや惚れている相手のみならず女性全般に対して、なにげなく交わすような言葉をもたないという同級生などと付き合いをもった経験などないだろう。なんということだ、彼女とその友人だけではなく、僕をここに誘った彼までもが、僕がなにか言うだろうと思っているだなんて!僕に何を望んでいるのだ。
帰りたい。切実にそう思った。この場所から消え去りたい。
ついに僕は、彼女が部活があると言ってその場を離れるまで、一言も発することができなかった。
作品名:ひらきこもりの方程式 作家名:蜜虫