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ひらきこもりの方程式

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  * * *



 「おいブンガク、お前何読んでるんだよなんだよまた文学か、すきだねキミも」

 そう、彼女が僕を好きになるべき可能性は無限大と言っていいだろう。ましてやこの学び舎で、共に二年と三ヶ月の間教室を同じくしてきた間柄であれば尚更だ。僕がそんなに悪い男ではないということ、彼女と肩を並べていささかも見劣りすることのない男であることに、きっと彼女も気づいているはずだ。

 「おいブンガク、聞いてるのか」

 たとい気づいていなかったとしても、僕の人柄を知ってもらう好機はいくらでもある。なにしろ僕と彼女にはまだ時間がたっぷりあるのだ。時間はある時間はあると思いながらこれまでなんのリアクションも起こすことができなかった僕ではあるが、それは単にいつもタイミングが悪かっただけだ。けれど時間はまだある。焦る必要はない。

 「おい無視ですかこの文学オタク」
 「オタクッて言うな」

 思考がとぎれた。いくら今が休み時間だとはいえ、このような級友の無駄口につきあっている暇など僕には無いというのに。

 「いいじゃんオタク」
 「本物のオタクの君に言われたくはない」
 そうだ、オタクという呼称は本来彼にこそふさわしい。
 「そう俺はオタク、でもお前もオタク、それでいいだろ」
 「いいわけがあるか!」

 思わず高まった僕の声、しまったと思ったときにはもう遅い。唐突に、教室を沈黙が支配した。

 僕は狼狽える。クラスメイトが何人かこちらを見ている。なんだ、僕の今の声はそんなに大きかっただろうか?いいや、そんなはずはない。少なくともこんなふうに、教室中が静まり返ってしまうほどには大きくなかったはずだ。

 ならば僕は何故こんな沈黙をもたらしてしまったのだ?
 

 ーー ああ、少女よ
    百合の茎のようなその首を傾け、仲間の娘達と視線を交わす少女よ、君よ
    おまえはなぜわらつているのだ
    おまえの目が、おまえの笑みが、
    僕の心を焼き尽くす!


 彼女が僕を見ていたのはほんの一瞬のことだった。彼女はその細い肩をかるくすくめ、おどけたような視線を周りの女子生徒達と交わしあうと、ふたたび彼女達の、彼女達にしかわからない会話の中に戻っていった。
 
 「なにはしゃいでるの、おたくたち」
 「オタクでないと言って、」

 いるだろう、という言葉は舌の上で止まった。

 「ああ、斉木(さいき)くん」

 僕達二人はなぜか可能な限りさわやかな笑顔をつくって斉木くんに応えた。

 斉木くんはそんな僕達の笑顔ににっこりと微笑んだ。斉木くんはいつも笑っている。斉木くんは歯並びがいい。歯並びだけでなく、骨格そのものが良い形をしているのだろうと思わせるような美男子だ。斉木くんが動けば彼を見ている女子の視線もつられて動く、そういう男だ。だから斉木くんが僕達のもとに来たことでまた幾人かの顔がこちらを向いた。なぜ彼が僕達のような者に声をかけたのだろう。

 「ブンガっちゃんがでかい声出すの珍しいと思って。なんか楽しい話してる」

 なんのことはない、彼はそういう男なのだった。誰とでも襟を開いて話すことができる人間なのだ。話しかけられた相手も彼の持つその雰囲気を感じ取るから、彼には友人がとても多い。斉木くんはとてもいい奴だ。

 だから僕達は彼と向かい合うと必要以上にかしこまってしまう。

 斉木くんは学校という場所に生ずるヒエラルキーの頂点にいる存在だ。彼自身にそのような自覚はないかもしれないが間違い無くそうだ。

 そして僕達は底辺だ。自分でそのことを自覚している底辺だ。

 「いや、つまんない話だよ。こいつがオタクだっていう話さ」
 指を指されて僕は目をむく。
 「オタクは君の方だろう。先刻自分で認めたじゃないか」
 「なに言ってるんだよ、俺はオタクじゃないよ。マニアだよ」
 「え、それって違うものなの」

 斉木くんが問う。それに自称マニアが戸惑いを見せた。馬鹿めと僕は思った。オタクとマニアの違いがわかるのなんてオタクかマニアかのどちらか、あるいは両方に属する人間だけだ。

 マニアは言う。
 「いや、違うものだよ。なんていうか、オタクはオタク、マニアはマニアって感じでこう…」

 僕は侮蔑をこめた目でマニアを見た。この男は自ら墓穴を掘っている。そんな呼称について詳しく説明したところでなんの意味もない、むしろオタクやマニアという呼び方が問題なのではなく、ただこの男が気持ちが悪いというイメエジをもたれてしまうだけだ。

 身ぶり手ぶりをまじえながらマニアは喋っていたが、その説明の結末を僕に向かって放り投げてきた。

 「ということで俺がマニア、こいつがオタクってことだ」

 そう言ってマニアは満足気に僕を見下ろした。口元に浮かんだ中途半端な笑みの意味がわからない。けれど仕方がなかろう、彼も斉木くんのような殿上人と余裕で言葉をかわせるほど出来た人間ではないのだ。それがわかっているからこそ、僕の方には逆にゆとりが生まれる。他人が緊張している様を目の当たりにすると、かえって落ち着く。

 僕は冷静に言葉を発した。

 「いいや、僕はオタクじゃないよ。僕はそう言われてうなずけるほど専門分野についての知識があるわけじゃないんだ。オタクというのは自分の好むもの――僕の場合は文学なわけだけれど――に対して深い知識と造詣を有する人に対してもちいられる呼称だろう。僕ごときの知識でオタクなんて言っていたら、本当にものを知っているオタクの人に悪いよ」

 立て板に水を流すように、僕は言ってのけた。自分でもこれはいい切り返し方だと思った。この意見に反論はできまい、そう思った瞬間。

 「ああああ」
 マニアが吠えた。

 「本当に鬱陶しいなお前は。そういうこと言ってる奴が一番気持ち悪いんだよ!一体お前はいつから自分で自分を判断できるほど偉くなったっていうんだよ。オタクかそうじゃないかなんて自分で決められるもんじゃないだろうが。お前が幾らそうじゃないと思ってたって、他人がそうだって思えばお前はオタクなんだよ」

 土石流のごとくマニアは言葉を繰り出した。

 「大体お前、オタクって呼ばれること良く思ってないだろ。なのによくそんなこと言えるな。本当嫌な奴だよな、自分を下げて相手を持ち上げるような言い方して。心の中では見下してる癖に」

 見抜かれている。

 マニアは笑っている。

 僕の負けだ。僕は返す言葉がなかった。

 気づけばこちらを見ていた女子生徒達も笑っている。明らかに僕のことを笑っている。そういえば先刻僕はマニアが斉木くんにオタクやマニアについて説明しているときに、こんな説明等無意味だと考えたばかりではないか。それがどうだ、僕はマニアを言い負かそうとして、詳しくオタクについての僕の考えを述べてしまった。ということはおそらく。


 ーー ああ、少女が笑う
 
    僕は気持ちが悪い男だと思われている?

 
 ほがらかな声がした。

 「おまえらおもしろいな−」

 斉木くんが笑っていた。でもそれは嘲るような笑い方ではなく、本当に楽しい、と思っているのが一目でわかる笑顔だった。

作品名:ひらきこもりの方程式 作家名:蜜虫