金星人の硝子
木曜日になると、アルバイトの面々の誰かが必ずいう。
「今日は木曜か。あのひとが来るね」
すると誰かが答える。
「ああ、フェアレディZの魔女でしょう」
「そうそう、赤い魔女と黒い魔女がいるんだよね」
「でも赤は最近見てないね。黒しか来ない」
「うん、黒しか来ない」
キリが不思議そうな顔をする。
「魔女?」
「ああそうか、遠藤さんは入ったばっかりだから、まだ魔女を見てないのか」
「じゃあ今日来たら遠藤ちゃんのところに送っちゃおう」
「やめやめ、慣れてないときついって」
「はは、強烈だからなあ、あのひと」
「でも運転は上手いよね」
「おーい、五番行くぞー」
道路際から案内係の男がさけんだ。かけられた声に、喋っていたひとりが手をあげて応える。五、とかかれた塔の入り口の前に立っている奴だ。道路から入ってするりとそちらに向かったクラウンが、なめらかに塔の五番口に収容された。運転手が降りる。塔から出てくる。
客が去ってゆくのと同時に、がごんと音がして、残された車が宙に浮く。鉄のプレートにしっかりのせられて、塔の一番上まで運ばれていく。
「魔女じゃなかったか」誰かがいう。
「魔女は午後にしか来ないんじゃなかったかしら」
誰かが答えた。
巨大な塔の天辺から、鳩が二羽飛び立った。
* * *
キリは学生だ。大学で何を専攻しているのか、何度か聞いた覚えがあるのだが思い出せない。キリから聞いた話で僕が間違いなく覚えているのは、彼女が落ち込むととても長く眠るということ、それから金星人の話だ。
誰が彼女に金星人のことを教えたのか?それは僕にはわからない。聞いたような気もするのだが覚えていない。どういう話の流れで僕達の会話に金星人が登場したのか、それももう覚えていない。覚えているのは、金星に何者かが住んでいるということを、キリが本気で信じているというわけではないことだ。キリはただなんとなく、どこかで聞いた物話を僕に教えてくれたのだ。
「金星の文明は地球よりもはるかに進んでいるんですって」
「金星人は私達とおなじような見た目をしていてね」
「でも地球人よりもずっとずっと進化しているから、殆ど皆同じ顔をしていて、それがとてもきれいなんですって」
「金星人は言葉を使わないんですって。皆テレパシーが使えるから、それで」
「金星人は時々地球の人間をさらったりするけれど、でもちゃんと無事に帰してくれるんですって」
「総じて金星人はとても素晴らしいひとなんですって」
金星人。顔のきれいな金星人。
金星人。テレパシーを使える金星人。
じゃあ金星人はなにか妄想することなんかできないんだな、と僕は思った。皆が皆他者の頭の中を覗けるちからを持っているのなら、すれ違う人間にもった感想も嫌いな奴への悪感情も、自慰行為のための想像も隠せないのだろうから。まさか道徳的でない考えに耽っているときは自分の意識が外に知られないようにできる、などと都合のいいことは言わないだろうな。
「でもね、金星人にさらわれたひとのなかには、何かを身体に埋め込まれたひともいるんだって」
「それはちっちゃい、ガラスのかけらみたいなものなんですって」
ガラス?と、たしか僕は聞いただろう。
「うん、ちっちゃい、すごーく小さいガラスのかけらみたいなものが、首すじに」
でももしかしたらガラスじゃないのかもしれないらしいんだけど。ほら、なんていっても金星人の文明の方が進んでる訳だから、今の地球人にはそのかけらの正体がたとえば何かの情報を持ったチップみたいなものだったとしても、わからないわけじゃない。ただそれは傍目には本当に小さいガラスのかけらにしか見えないんですって。
キリがそう話していたのは覚えている。でも僕は金星人自体よりも、首すじにガラスのかけらを埋める、その行為の方が気になった。それは痛いような、怖いような気がして、想像すると自分の首が急に頼り無く細いものに思えた。
でも逆に、それはどこかあやうい魅力をもつようにも感じたのだ。
だからその話は、僕の鈍い頭の中にもわりに鮮明に残っているのだと思う。
ーー うつくしいひとにさらわれる。
それはきっと一瞬のことだ。僕にはしばらく、自分がさらわれたのだという自覚すらないかもしれない。
そして気がつくと、僕は元の場所に戻っている。まるでさらわれたことなんかなかったかのように。ひょっとしたら、さらわれていた間の記憶は無くなっているかもしれない。うつくしいひとの持つなにかわからない不思議な力が、僕からその記憶を奪うのだ。
けれど僕はたしかにさらわれたのだ。だれも信じなくても、僕自身が忘れてしまっても、僕はたしかにさらわれていたことがあったのだ。その証拠に、僕の首すじにはガラスのかけらが埋まっている。うつくしいひとが埋め込んだ、ガラスのかけらが僕のなかに ーー
それは妄想だった。けれど美しい色彩をともなった空想だった。首すじに、ガラスを。考えるとぞくぞくした。それは痛そうだ。それは怖い。血がでるかもしれない。考えるだけで、背中からうなじにかけてかゆいような感覚が駆け抜ける。眼球に針を近付けていくことを想像したときと、それは同じ感覚だった。鳥肌がたつ。
けれどきっと、それは少し怖いから魅力的なのだ。