金星人の硝子
なずなとの恋は、世界を薔薇色に輝かせるような心踊るものではなかった。
いや、公平に言えば、想いが一方的なものであったころは彼女の態度に対して一喜一憂し、その一喜を思い返せば確かに幸せを(それももう熱くなった頬や耳や心臓がそのまま発火してしまってもかまわないというほどの幸せを!)感じていた。でも彼女と曲がりなりにも恋人と世間で呼ぶような関係に落ち入ると、そのような熱を喜びによって感じることは徐々に少なくなっていった。彼女といて感じる身をよじるほどの熱は、苦しみによってもたらされるようになった。苛立ちや、嫉妬や、己の猜疑心から生まれた妄想などが僕の心を焼き、その苦しさはとても思い出したくはない。それでも当時の僕は、なずなから離れることなど思いもよらなかった。どれほど彼女が自分を無下に扱っても、堂々と他の男と浮気をしても、彼女と別れることなどできないと思った。
周りの人間は僕に向かって、お前はただあの子に遊ばれているだけなのではないかと、言いにくそうに言った。
ある者はこうも言った。
「お前がそんなにあの子を気にいっているならそれでもいいけど、でももっと他にも目を向けるようにしてみたらどうだ?つまり、あの子がお前に対してやってるようなことを、お前もしてみたら。あの子だって遊んでるんだから文句も言えないだろう。とにかく、お前ばっかりそんなふうに軽くあしらわれてるのは、なんていうか・・・」
彼は言葉を選んで言った。
「なんていうか、すごく、不公平だよ」
けれど、僕はそのような友人たちの言葉も右から左に流し、なずなを想い続けた。恋愛に対等な関係などありえないとつっぱねた。
それでもときに、この想いは恋ではなく、ただ執着なのではないかと考えることもあった。自分は実は彼女の仕打ちに耐えるのに疲れ、いつのまにか恋心を憎しみに変えているのに、気づいていないだけなのではないかと。僕はそういうことを真剣に考え、何度も彼女に向けているものが恋情なのか悩んだ。
でも本当は、当時の僕のそういう思考は全て、なずなへの気持ちをよりいっそう燃え上がらせるための薪でしかなかった。心臓を吐き出してしまいたい思いの底で、僕はこう思っていたのだ。この苦しみが恋以外のなにかであるはずがない、と。彼女の移り気がこんなに辛いのは、それだけ自分が彼女を愛しているという証拠なのだと。
ここまで記憶を辿って、僕は息をつく。
なずなに対する僕が、ひどく熱心でまっすぐな男だったと考えることに、僕はいつもすぐ飽きてしまうのだ。
* * *
少しでも冷静に己を顧みれば、あの慕情の別な面が簡単に見えてくる。
私はなずなを愛することで、いささか得意になっているところがあったのかもしれない。自分のことながら、それはマゾヒスティックな快感だったと思う。
私は彼女を愛すると同時に、どれだけ無下に扱われても彼女を想う自分の、一途な姿を愛することができた。まわりの互いに気を使いあい、相手の興をそそり続けることに必死な恋人たちよりも、自分をかえりみないひとを受けとめ、想い続ける自分こそが、真実の愛をもっているのだと思うことができた。また、結局最後になずなの元に残るのは自分だとも思っていたのだろう。彼女のような奔放にすぎるひととずっとつきあえる人間など私くらいしかいないという思いが、私の苦痛を柔らげた。実際にはそうではなかったわけだけれど。
* * *
やめだやめだ、と僕は思う。
こんな思考は無意味だ。いつまでも別れたおんなのことをねちねちと思い続けるなんて、まったくもって時間の無駄だ。
そんな科白でなずなについて考えることをやめるのが、もはや定型の挨拶のようになっている。昨日も僕はこの言葉を自分にいいきかせ、なずなを頭から追い出した。今日もこの言葉でなずなとの思い出を締めくくった。そう、もはやなずなについて考えるということ自体が、まるで彼女との思い出そのもののようになっている。明日もきっと僕は僕の頭の中のなずなのことを考えて、同じ科白をはいて眠りにつくだろう。
それではまるでなずなが、ぼくのあたまのなかでのみ生きるおんなのようではないか?
僕は考える。そんなことはどうでもいいことだ。
そう、そんなことはどうでもいいことだ。だって結局、いくら考えたところで僕にはなにもわからないのだ。
そう、ぼくにはなにもわからない。彼女が僕を見限った理由も、来週のバイトのシフトもわからない。そもそも僕は恋と執着とが違うものなのかわからない。