金星人の硝子
うつくしいひとと考えると、もう反射のようになずなの顔が浮かぶ。なずなはきれいな顔をしていた。
「おーいい、三番、行くぞー」
案内役の男がまた叫んだ。三番とは僕のいる入り口だ。白いカローラがゆっくりと近付いてくる。僕は手を上げて、カローラが出入口の中にある鉄のプレートに乗るように誘導する。客が車から降りて、塔の外に出てくる。僕は壁の操作板のボタンを押す。カローラを乗せたプレートはがこんと動きだし、塔の上に向かう。その動きが止まると、入り口のなかには別の空のプレートがまわってくる。
なずなはいつもきれいに化粧をしていた。髪や爪もいつもつるつると輝いていた。
目の前を黒のフェアレディZが通過していった。
なずなは口調や言葉はきついけれど、面差しは柔らかかった。優し気な顔から出た悪態だからこそ、彼女の文句は厳しく感じられた。
フェアレディZは四番出入口に収容された。誘導したのはキリだった。
なずなはよく笑った。僕は彼女の笑みがとても好きだった。その顔は目が細められ、本当に幸せそうに見えた。笑うなずなを見ているだけで、僕は嬉しい気持ちになった。
今日は全然お客がこないわねえ、と、二番車庫の前にいる女が話しかけて来た。平日だからねえ、と僕は答えた。
なずなは僕のどこが嫌だったのだろう。そもそも僕のどこを見て恋人にしてもいいと思い、どこを見てもはやつきあえないと判断したのだろう。なずなは出会ったはじめから僕のことをよくなじっていた。気がきかないとか、のろいとか鈍いとかうるさいとか馬鹿とかしねとかよく言っていた。無神経だとも言った。なずなが口のよくないのは誰に対しても同じだったが、特に僕にはひどかった。でも僕とつきあいたいと言いだしたのはなずなの方だった。だから僕は彼女の態度を自分に都合良く解釈し、僕に誰よりもひどい暴言を吐くのは僕に気を許しているからだと思っていたのだ。でもなずなはあっさり僕を捨てた。喧嘩をしたのでもなく、いつものように僕の家にやってきてすぐもう別れるとかそんなようなことを言って帰っていった。細かい言葉は覚えていないが、それが「別れたい」という希望ではなく、「別れる」という断定だったことは確かだ。追えなかった。
なんなのこれ!という叫び声がすぐ近くでした。気づけばもう日が沈みかけていた。怒鳴ったのはフェアレディZの客だった。魔女と徒名されているひとだ。用を終えて戻って来た彼女は、出入り口に戻された自分の車を見てキリに怒鳴り付けていた。
「これ見なさいよこれ!鳥の糞がついちゃってるじゃないの。こんなのここに車を止めるまではなかったわよ!」
絶対にこの塔の中でついたのよ、ちゃんと綺麗にしてちょうだい、と言う魔女に、キリが頭を下げる。申し訳ございません、と塔の中にある雑巾をとりにキリが四番出入口に入る。車をふくキリに、魔女がぴったりとはりついてずっとなにか言っていた。一番車庫の前にいるパートの老人がそれを見て、ああ、鳩がなあと呟いた。フェアレディの汚れは数分で落とされ、魔女は愛車に乗り込んだが、窓を開けてキリを手招くとまたなにごとかをキリに言い募り始めた。ああ、と僕は思った。この黒いフェアレディのお客さんは毎週木曜日にこの塔を利用しに来るのだが、ものすごく苦情の多い人なのだ。まず案内役も僕ら誘導の係員も不要だ邪魔だと言っては怒り、塔の前においてある赤いカラーコーンを見た目によくないと言っては怒る。車に鳩の糞などがついていたらいわずもがなだろう。それに他の苦情はともかく、塔に車を置いているあいだに車に汚れがついたというなら、それは確かにこちらの責任になる。しかしそれから二十分も文句が続いたのにはさすがに驚いた。開始五分程度で鳩の糞に対する苦情ではなく、女性係員の制服のスカートが短い、そもそも係員の態度が悪いという話にうつり、最後はキリ個人のことを散々言ってようやく去っていった。
終業してから、キリに仲間達が声をかけた。魔女の徒名の理由がわかっただろうとからかうように言う者も、あれくらいのことは皆一度は言われているのだから気にすることはないと慰める者もいた。でも僕にはキリがとにかくはやく帰りたがっていることがわかった。きっとキリは帰って眠りたいのだ。深く、長く眠りたいのだ。だから僕は特になにか言うこともしなかった。僕とキリが帰ろうと係員事務所をでるときに、老人が鳩を駆除せにゃあなあと言っているのが聞こえた。
* * *
キリと僕がアルバイトの仲間内でも特に親しくなったのは、途中まで帰る方向が一緒だからだろう。今日、隣を歩くキリはいつもより口数が少なかった。可哀想にと僕は思う。キリのような子には、きっと人前であんなふうに怒られた経験などないのだろう。
「もうねむい」とキリはぽつんと言った。「明後日まで寝るわ、私」
それもいいんじゃないかな、と僕は言った。
「うん、どうせ明日明後日は私バイトも入ってないし、学校もさぼって寝るわ。ねえちょっとばかみたいだっておもう?」
「え?」と僕は聞き返した。例のごとく意味がわからなかった。
「あれくらい言われただけで、いちいちショックを受けてるのって、弱いと思う?」
と、キリはゆっくり喋った。
「そうかもしれない、でもそうでもないような気もする」
僕は言った。キリが弱いかどうか、僕にはわからない。
キリの手が僕の手に触れた。指の先だけで手をつなぐ。
「ねえ、土曜日は空いてるかしら?」キリが前を見たまま聞いた。
「わからない」と僕は言った。「でもたぶん空いていると思う」
「じゃあ、会わない?私、長く眠ったあとって、すごく遊びたくなるの。映画を見たり、買い物にいったりしたくなるの。つきあってくれる?」
いいよ、と僕は答えた。そして、道々キリがぽつぽつと話す言葉を聞いていた。
「私、怒りっぽいひとには慣れてるつもりだったのよ。今一緒に暮らしてるひとがいるんだけど、そのひともわりと短気だから。でも、やっぱり違うわね。親しいひとに言われるのと、全く知らないひととじゃ全然違う」
同居している相手がいるとは知らなかった。恋人だろうか。突然繋いでいる手が熱くなったような気がしたが、僕はそれをきっかけにまたなずなのことを考えた。キリといて、手を繋いで歩いていて、別に彼女のことをなんとも思わない訳ではないのに、それでも僕は呼吸をするように自然になずなのことを思っていた。