世界地図屋さん
「きっと空のずっと上からこの世界を眺めたら、これよりももっと綺麗なんだろうな」少し不気味な笑顔のまま、店主はそう呟いた。
世界地図屋に行かない日は、私は何をしているのかというと、何をしているわけでもなく、ただ風当たりの良い日陰を探してごろごろしていたりする。私のお気に入りのスポットは、ある雑貨屋の横を通る階段だ。左右は建物に囲まれているから日も当たらないし、風も心地良く吹き続けている。
たまに雑貨屋から出てくるお客がこの階段を通って私を見付けると、小魚をくれる。この雑貨屋で売っている小魚は固くてちょっと食べ辛いけど、食べ物を貰える頻度は確かにここの方が高かった。
ごろごろしていて、気が付くといつの間にか夜になる。街全体も涼しくなるので、私は散歩に出掛ける。アーチ型の門のてっぺんで空を眺めていると、私の仲間のケトがやってきて私に挨拶を交わした。ケトは、隣の地区のボスだった。だけどボスの座の奪い合いに負けてしまい、今ではこの地区でひっそりと暮らしている。その時に受けた傷がこれ、と齧られて少し欠けてしまった耳を勲章のように何度か見せてくる。痩せぽっちだけど、逞しい面が多い。
いつかもう一度ボスの座に上がるのが、オレの野望だとケトは言った。ボスの座なんて、そんなものを持っていると良いことでもあるの。お前だって、もし好きな奴がいたらそいつはボスの方が良いだろう。ボスはかっこいいし。私がのんびりとした声で言うと、ケトは逞しい声でそう言った。まあ、どう説明してくれても、私にはよく分からないことだ。
好きな奴、かあ。ケトはちょっとお気に入りだけど、別に好きという線をまだ越えていないと思う。好きという線とは、一体何なのか、考えても言葉では上手く言えないけど、とにかくケトはまだ好きというわけではないと思う。
モテモテになれるんだぜ、ボスってのは。毎日美味しい飯も食べられるし。へえ、そうなんだ。だから毎日ひっそりと強くなる為に修行をしているんだ。へえ、そうなんだ。ボスの話を熱く語るケトだけど、私はあんまりボスの話に興味がない。私自身がなれるわけでもないし。私は夜空を眺めながら、ふんふんとした面持ちでケトの話を聞いていた。
オレはいつか、こおんなでっかい魚を一日掛けて喰うのが夢なんだ。ほう、それはでっかい夢だね。ちらりとケトの方を見ると、こおんなでっかい、の所でどれだけ大きいのかを両手両足を目いっぱい広げて表現していた。成程、こおんなでっかいのなら、一日掛けて食べることになりそうだ。
ロマンだろう? ケトは自慢げに私の顔を見て言う。成程、ロマンか。ロマンという言葉を久々に聞いた気がする。
ケトがまだ隣の地区のボスで、私がまだケトのことを知らない時の話を思い出した。あれは、世界地図屋のたまの定休日の夜に、店主が遠くの酒場で色んな大人たちと飲み交わしていた時のことだ。
その酒屋は、私が行くとご飯を作ってくれたりするので、たまに美味しいものが食べたくなるとここにくつろいだりする。ここのコックの作るご飯は、どこよりも格別に美味しい。
でもここに店主が来ることはあんまりないし、その時は珍しく私と店主は酒場でばったりと出会った。出会った、とは言っても、店主は私の方には気付いていなかった。
酒を飲んですっかり酔いが回っていた店主は、いつもより饒舌に且つ熱く地図の話をしていた。店主が若い頃、世界中を旅していて、その国々で見てきた世界地図が場所によって違うのに気付いて、コレクター感覚で最初は集めていたこと。そしていつの間にか、自分は旅仲間で世界地図コレクターとして密かに有名になっていたことを、自慢げに話していた。店主が自慢げに話をすると、言い終わりに必ずわははと笑う。
そして旅の中で、自分はいつか世界地図屋という店を立てることを心に誓ったらしい。店主は元々この街の生まれだ。この街は他の所よりも平凡で、しかしとても平和なことに気が付いた。これだけ平和な街だったら、世界地図に興味を持つ輩も多い筈だと言うのが店主の自己的な見解だった。
果たして、平和な街だとそれだけ世界地図に興味を持つ輩も多いのか。そんなことは分からないけど、他の街では世界地図を買う物好きなんてそうはいないよ、と店主はがははと笑い飛ばして言った。成程、そんな店を立てた店主は相当な物好きなんだろう。
周りの大人たちは皆店主の話に噛り付いて、興味深そうにふんふんと聞いていた。
そんな風に世界地図を集めていても、旅の途中では絶対に手に入らない地図も見てきたと店主は言った。例えば美術品として飾られているような高価な世界地図だったり、今の店の外の壁に置いてあるような巨大な世界地図だったり、あれよりももっと巨大な世界地図も、どこかの国にはあったらしい。中にはまだ、あることは知っているけど店主が見たことのない地図もあるんだとか。
そういうものを写真に収めたものを、店主は何枚か持っていた。それを大人たちに、こんな変な形をした世界地図もあるんだぞと自慢げに言いながら、見せびらかした。その中でも一番気に入っていたのが、大陸の部分が盛り上がって、海の部分に実際の水が張ってある立体的な世界地図だった。写真の周りに写っている人と比較すると、これは随分と大きそうだ。お前の店に入り切らないんじゃないのかと、一人がわははと笑いながらそう言った。
これは店主も実際に見たことがないらしい。一度で良いから、いつかこれを生で見てみたいな、と店主は零した。笑いながらではなく、しみじみに、零した。成程それが、店主の夢なんだろうな、と私は思った。
すっかり遅くなった夜、店主はふらふらとした足取りで店へと帰っていった。そのふらふらとした足取りがなんとも面白かったので、私は店主についていった。今日は満月で、星空が綺麗だ。
「うう、ラウはな、今日は友達の家に泊まりに行ってるんだ。ワシは久しぶりに、一人で寝ることになるな」私のことに気が付いた店主は、挨拶を挟まずにそんなことを言った。笑っているわけでも悲しそうなわけでもなく、何と言えば良いのか分かり辛い、色んなものが混じったような表情をしていた。
「お前、月には行ったことあるか?」店主はまた唐突に言った。月など、勿論行ったことがない。私はそんな風に鳴こうとすると、行ったことないだろうと店主は間を与えずに言った。
「実は、表沙汰にされていない伝説の地図というのがあるらしいんだ。それはなんと、昔の魔女が描いた地図らしい。どんな地図だと思う?」
そんなことを聞かれても、ただの私には勿論分かる筈がない。地図にそこまで興味があるわけでもないし。さあ、と私は鳴こうと思ったが、止めた。どうせ鳴く前に店主は間を与えずに何か言うのだろうと思った。店主は一度私の顔を見て、ちょこんと首を傾げて、もう一度月を見た。
「月の地図だよ。世界を記した地図ではなく、あの空に浮かぶ月の表面を事細かに記した地図さ」いつの間にか酔いが醒めているのか、店主は随分と落ち着いた口調でそう言った。