世界地図屋さん
「誰も月になんて行ける筈なんてないのにな。しかも月の表面なんてここからじゃよく見えない。望遠鏡でも使ったんだろうが、その地図には月の裏側まで描いてあるという噂だ。もしかしたら、魔女は月に行く術を持っていたのかもしれないな」
しみじみと語る店主は、いつもと違っていて見ているだけでも少し面白かった。月の地図、かあ。世界地図とどう違うのだろう。その時は地図のこともあんまり知らなかったから、私はその凄さがあんまり分からなかった。
「まあ実際にあったとしても、子供や変わり者が好き勝手に描いたものかもしれないけどな。でも本当に魔女が描いたとしたら……そう考えると、ロマンだよな?」
その時も私は、ロマンという言葉の意味を知らなかった。月の地図を見てみたいと、店主が言うのだから、夢と似たようなものなのだろうか。
店主もケトも、ロマンを持っているみたいだ。夢のような、私じゃ良く分からない熱く語ったりしみじみと語ったりするようなロマン。私はそういうのは、多分持っていない。ケトみたいに、熱く語ったことがないから、多分持っていない。熱く語るケトも可愛いと思うし、しみじみと語る店主も面白いと思う。ロマンは、その人の別の顔が表れるもなのかもしれない。
ある日、世界地図屋に足を運ぶと、ラウが店の外にいた。外の壁の大きな世界地図の前で一人立っている。ラウの傍にはペンキが入ったいくつもの銀色のバケツ、片手には既に鮮やかな赤い色に染まっていた大きめの刷毛を持っていた。
「あ、今日も来たんだ。おはよう」
私に気付くと、ラウはにっこりと笑って挨拶をした。ほっぺたには緑と青のペンキが付いていて、少し鮮やかな笑顔だった。服装がいつものとは違う、地味な色をした大きめの繋ぎを着ていた。繋ぎの所々は、ペンキで汚れてしまっている。
こんな時間に、ラウに会うのも珍しい。それよりも、こんな姿を見掛ける方が珍しかった。ラウの行く学校にも休みがあるらしいが、今日はそれなのだろう。
世界地図の方に目をやると、今まで街に馴染んでいた古ぼけた色模様に、鮮やか色が塗られていた。大陸は緑で染まっていて、海は青で染まっている。同じ色合いではなく、所々が薄かったり、まだ塗られていない所もあったりした。
「どう、きれいでしょ?」
えっへんと、ラウは腰に手を当てて自慢げに言ってみせた。何と言うのだろうか、さっきはラウの方に目が行ってしまったからあまり気付かなかったけど、ラウがいなければ多分私はこの世界地図にじっと目をやっていたかもしれない。派手な色で、いつの間にか塗られていたのなら私はきっとびっくりしていたと思う。
「お父さんがね、塗っても良いよって許してくれたの。あたしね、この地図にはまだまだダメな所があるんだと思うんだ。分かる?」
ううん、この地図なんてただ通り過ぎる時にちらりと見ていた程度だったし、まだまだダメな所なんて、言われてもよく分からない。
「色がないって言うのもあるんだけどね、なんだろう……これにはね、花がないのよ。そう、花とか、そういうものが足りないと思うの」私が鳴こうとする前に、ラウは間を与えずにそう言った。
成程、花か。しかし地図に花なんて、そんなに大切なものなのだろうか。本物の花は私も好きだ。良い匂いがするし。花がないと言うラウも、きっと好きなんだろう。だけど、絵に描いた花は匂いも何もしない。その代わり、ペンキは嫌な匂いがする。ラウは赤色のペンキに漬けていた刷毛を取り出して、ペタペタと色を塗った。ちいさな丸を描いて、中を塗り潰して、それを周りにいくつも描く。見事、花が一本咲いた。変てこな形をした花だ。
「世界地図に花が咲いてたら、すてきだと思わない? 鳥とかが飛んでいても、なんか面白くて良いと思うわ」
そう言ってラウは、いつもよりもわくわくとした表情を浮かべて、色々なペンキの刷毛を取ってはそれを塗っていく。部分的に集中して、というわけではなく、思い付いた所にどんどん色を塗るような、そんな風に忙しなく右から左へ移動していた。後ろに目をやると、何人かが足を止めて世界地図を、中には色を塗るラウの後ろ姿をふんふんと眺めていた。成程、こういうのもふんふんと眺めるものなのか。私は少しだけ納得した。
店の中で寛いでると、繋ぎを見事に派手に汚したラウが入ってきた。「ただいまー」という大きな声で私は目を覚ました。どうやら、もう夕方になってしまったようだった。
今日は、外でケトと一緒に何か食べようかな。私はそう思い、扉を額でぐいぐい押して、店を出た。
「猫ちゃん、ばいばい」
扉の開く音に気が付いて、ラウはにっこり笑って私に手を振った。ラウのほっぺたには、それはもう緑やら青やら赤やらの色に汚れていて、鮮やかな笑顔をしていた。私は、またね、という風に、にゃあと鳴いた。
外に出て、壁の大きな世界地図を見てみると、もう半分以上は色が塗られていた。所々に花が咲いていたり、右上の端っこには水色の鳥が飛んでいたり、海の上には魚のようなものが浮かんでいたり。昼に見た時よりも、とても鮮やかな地図になっていた。ここを通る一人が足を止めて、ふんふんと少しだけ地図を眺めて、それからほお、と息を吐いて歩いていった。
色を塗り終わったら、もっと鮮やかで綺麗な地図になるんだろうな。完成した時は、そうだ、ケトを連れてきてみよう。ケトならもしかしたら「ロマンだなあ」と言うかもしれない。この地図には、ラウのロマンが溢れているような気がした。