超自伝 明智光秀
さて、天正十年(1582)の正月一日。信長への年賀の挨拶は、一門衆、他国衆、安土に住む地侍の順である。年賀の客は、先ず表門から三つの門をくぐり、天主の下の白砂を敷き詰めた広場にでると、そこに待っている信長に挨拶する。挨拶のあと、天主の御幸の間を拝見する。ここは、天皇行幸を奉迎する座敷であった。天皇は公式には臣下の家を訪れることはないが、将軍の場合は別らしい。信長は誠仁親王が即位の後、安土城に行幸を仰ぎ、皇室との関係を確定するつもりで、御幸の間をこしらえた。ここは、殿中ことごとく金色で、金具も金であった。
それらを拝見した後、台所を通って厩の前にでる。青竹を組んだ通路の行列に従い、私が足を運ぶと、堀、長谷川らの信長近習が路傍に立って、得意げに客に声をかけていた。
「あれに立たれているのは生き神さまであるから、手を合わせて拝んで、お礼の銭を渡すように。」
切れ目なく続く、列の客が、手をあわせ、百文いれたおひねりを渡すと、信長は無雑作に後ろの小姓の持つ盆の中に投げ入れた。信長の表情は無表情であり、私には、前を行く人々が虫けらのようにみえた。大名連中は、そのことに誰も気付いていなかったようだ。
私は、信長が近臣を集めた評定の座で言った言葉を思い出した。
「俺は蝦夷より、九州、琉球まで平定したのちは、唐国より南蛮へ乗り出す心つもりをしている。」と。
そして、この年賀で生き神さまを演じていた信長に、底知れない不気味な面を感じたものだった。
信長と朝廷の確執
信長が武田勝頼を打ち破って安土城に帰還したのは、天正十年(1582)四月二十一日だった。そして、京都、堺、畿内からの大名たちや信長を知るいろいろな人々が凱旋のお祝いにやってきた。
五月十四日、北西の空に不気味な大彗星があらわれた。フロイスは、「月曜日の夜九時に、ひとつの彗星が空にあらわれたが、はなはだ長い尾を引き、数日にわたって運行したので、人々に深刻な恐怖心を起させた。その数日後の正午にわれらの修道院の七、八人が、彗星とも花火とも見えるような物体が、空から落下するのを見て、非常に驚いた。ところでこれらの兆候を深く考えれば、驚くべき将来の出来事の前兆として、恐れずにおれないはずである。だが、日本人の間では、こうした吉凶占いはあまり行われておらず、それが本来なにを意味するものか、気づきもしないようだ。」と書いている。
この頃から信長は、誰にも見当のつかない行動を取りだしている。
朝廷では、信長が凱旋した翌日の二十二日には、安土城に勅使を送って、戦勝を祝った。二十五日には信長を太政大臣、関白、征夷大将軍のどれかに任官させようと決めた。将軍については源氏という先例であったが、義昭を解官して、信長を平氏将軍にするというものだった。しかし、信長はその勅使に会うこともせず、その申し出を拒否した。信長が心中で何を考えているのか、取巻きの近臣である、森蘭丸、長谷川秀一、堀秀政らにも判らなかったようだ。征夷大将軍の地位は武門の最高峰であったからだ。
信長は、実は甲州征伐に向う前に天正十年二月に、暦の改定をすると朝廷を恐れさせる意思表示をしていた。日本では古代から、朝廷の陰陽寮というところで、陰陽頭が暦を作っていた。陰陽頭には、土御門家が世襲で任命されて、全国の陰陽師を統率していた。土御門家の作る暦は、京暦と呼ばれた。信長は、これに変わって、尾張美濃で用いている三島暦を京暦に変えようとしたのである。つまり、天下を統一するには、暦の統一は必須であるが、これを信長がするということは、天皇の権威を無視することになる。
この問題を持ち出されそうなので、朝廷は何らかの官位を与えて、信長を朝廷の臣下にしなければならなかったのである。しかし、信長は、この申し出を蹴った。信長が何を考えていたのか、誰にも判らなかった。これらのことを見るにつけ、私は、信長との距離が、埋められないほど大きく開いてしまったと感じたのだった。
そして、五月七日の朝、信長は、三男である信孝に、四国征伐を命じた。そして、緒将のいる前で、次のように告げた。
「なお、このたび、信孝の後見人は、長秀に申し付ける。」
後見人は、私ではなかった。この瞬間に、中国地方と四国地方を平定する役目は、秀吉にまかされたといってよかった。ということは、これから出向く毛利攻めで、私は秀吉の指揮下にはいるということになるからだ。
安土の周辺警護をするという、私の立場は、信長配下の武将のうちで、最も重いものとは考えられたが、私には、信長の日本平定のための戦闘要員としての傭兵軍団から、はずされる可能性があるとはっきりと感じとれた。私は、五月十七日から二十五日まで、坂本城ですごした。その間、誰も近づけずに、ひとりで、琵琶湖の湖面が見える居間で、今までの人生の事々に想いを馳せていた。
第五章 本能寺
天正十年五月二十五日夜
ここまで、回想してきて、私は想った。
「私は、実の父母のことも、早死にした養父母のことも、よく憶えていない。その後、叔父に面倒をみてもらい、元服後も叔父に領国の仕事を一切やってもらい、自由に諸国を見せてもらった。その間は、領国の中での問題もなく、私と叔父との間には、もちろん、争いなどはまったくなかった。幸せな日々であった。しかし、周りの国では下克上や親子どうしや親戚どうしの戦いが起こってきた。足利将軍による守護や地頭を介する政治が堕落して単なる収税組織となったために、日本一国を治める機能は低下したせいであった。
平和とは、みんな、お互いを理解して、自分の立場をまもり、仲良くその責任を果たしていくことであると、私は理解しつつあった。しかし、そんな中で、明智城が攻撃され、叔父たちはみな、無念の死をとげてしまった。私はその叔父の、明智を再興せよとの要請で、命永らえてきた。この下克上や力ずくの領国支配の時代は、本来、自然なものではない。
自然は人間のように私利私欲はない。明智城落城後の流浪の時代に、私は多くのことを学んだ。この戦乱時代は、実は足利将軍の、政治の堕落の中で発生してきたものであり、新しい政治体制への産みの時代であろうという直感がある。
更に、領国の人々の不満がつのれば、その不満の意識や想念は一つの塊となって、人間たちの意識を撃つのだろう。その結果、誰かを頭として、何らかの行動にでる。これは自然なことに想われた。
それらの者たちが、私利私欲でなく領国内を正しく治めたのであれば、人々は満足して戦乱の世にはならなかっただろう。しかし、実際には、そういう者は少なく、殆どの者たちは、自らの私利私欲に走り、止まるところを知らなくなった。