超自伝 明智光秀
そんな信長の野望と、日本の天下統一という平和への偉業の達成を最終目標としていた、私とは、根本的に違ったものであったから、この辺りから、信長と私の意識の波動の位相が180度違ってきたと想う。私から同じことを言われても、信長には、それまでの波動とは違って聞えたであろうし、信長の感情中枢に何らかの刺激をあたえたのかもしれない。だれでも、一つや二つの、とても違和感のある波動を感じた記憶があるだろう。
私と信長の間には、何時からか、そのような違和感が発生していた。
私の利用価値の変化
信長は天正二年(1574)三月、従三位参議に任ぜられ、天正三年十一月に大納言、右近衛大将、天正四年十一月に正三位内大臣、天正五年十一月に従二位右大臣、そして天正六年正月に正二位になっている。しかし、その年、天正六年の四月、突然辞官を申し出て、その後は官職についていなかった。その理由は、「征伐の功いまだ終らず」ということだった。全国を平定したら、また官職にもどってもよいという意味だという。
お鍋の方にもらしたという信長の本音は、「私はこの後、五、六年のうちには、四海平定をする。そうなれば、海の外に働き場所をもとめねばならない。そんな世になれば、それまでしか用のない位階は似合わないのだ」だったという。これは、フロイスの書いた風聞に近いものであり、事実であろう。
信長の権威は膨張するばかりで、彼の前にでる諸大名は、顔を仰ぎみることすら、憚られたのだろう。永禄五年(1562)に攻守同盟を結んだ家康ですら、織田政権の外様大名に転落していた。家康は、信長の忠実な追随者となっていく。信長に思い上がりがあると判っていても、信長から離れることはできなかった。離れたら、破滅することは見えていたからである。
天正七年(1579)築山殿事件が、家康の嫡男に嫁いでいた徳姫が、夫の不行跡と築山殿が武田家に内通していると信長に訴えたことから始まっているが、家康は、信長から妻と将来ある息子を殺して自分への服従をしろと暗に強制されたと想ったのであろうが、これに逆らうことはできなかったのが、その証左であろう。家康はもとより、築山殿、嫡男信康の悔しさははかり知れない。
天正九年四月十日朝、信長は小姓たちをつれて竹生島に参詣した。安土から長浜城まで十里、長浜から竹生島まで湖上五里なので、日帰りはできないと誰でも思って当然であった。城内の上臈たちは、信長を見送ったあと、「殿は、今日長浜にお泊りでしょう。お留守の間にたのしみましょう。」と二の丸で遊び、桑実寺に出かけたものもいた。寺で法話を聞き、湯茶の接待を受けていた侍女たちは、信長が突然帰ったときいて仰天した。侍女たちが迎えにでなかったので、信長は「女房どもが出迎えないのは、怠慢だ。」として、桑実寺の長老も詫びたが、「主人の許しもなく、勝手に持ち場をはなれた罪は見逃せぬ。」と、長老も含めて侍女たちを断首したということがあった。この上臈たちは主人の威を傘に着て、目下の者に傲慢な振る舞いが逢ったと信長が聞いていたこともあろうが、これはやはり、信長の非道をしめすものである。
信長の非道といえば、丹波征伐で波多野秀治の八上城を攻めた際に、私は「遺恨があって攻撃しているのではない。天下統一して万民太平の世を造りたいのだと。」と和睦を説き、老義母を人質として八上城におくり、私を信じて投降した波多野を安土に送ったところ信長が即座に処刑した。このために、私の老義母は城でころされてしまった。
「なんと酷いことをするものか。母上に申し訳ない。」と、私は切歯扼腕した。
更に、荒木村重が妻子と部下を捨てて有岡城を捨て、尼崎城に逃げた時のこと。村重の武将が内通して、滝川一益の軍が有岡城に乱入した。この時、信長は、村重に味方していた本願寺へのみせしめだとして、部下の緒将に命じていた。「城中の男女は、残らず斬れ。ひとりも助けてはならない。」と。
私は降伏した敵兵、罪のない婦女子を死刑にするのは残忍な所業だと思ったので、彼らの赦免を懇願したが、信長は本願寺の顕如上人を威嚇するために、すべて殺し尽くすと決めたら、それを実行するのみであった。村重の妻子と荒木一族の人質は、尼崎の七本松で女房衆百二十二人が磔に処せられ、それに仕えていた若等、下女たちは四軒の家に閉じ込められ、四方枯草で覆って火をつけて火あぶりの刑にされた。私は、この様子をすべて見とどけた。信長は常人ではない。
武田の人質となり後に信玄の養子になっていた信長の息子勝長が武田勝頼から返されてきて、安土城で信長と対面するということがあった。私はこの二人の対面のご馳走をしろと命じられた。
今まで、私は礼法に疎い信長に、さまざまな進言をして、受け入れられてきた実績があり、今回の勝長との対面には、直垂装束で出座してもらわねばと考えて進言した。信長は、そんなものは公家にさせておけばよいのであって、自分は常着でよいという。私はここで引き下がろうとしたが、親子対面の馳走奉行としては、ひとこと言ってしまった。
「久しぶりのご対面に、上様ほどの人が、常着では、客人の手前、いかがなものでしょうか」
「何を言うか、ここは私の城だ。招かれて喜ばぬ客はいないわ。おれが常着であっても、礼儀知らずと卑しむものはいるか。行儀ばかりで何の能もない公家の真似を何故しなければならないのか。明日のしたくししなくていいから、坂本に帰れ。」と言われてしまった。
私は、信長が京都に軍事政権を打ち立ててから、行政官僚としての手腕を目覚しく発揮した。石山本願寺との和睦が成立するまで、信長は畿内の統治に手をやいていた。私の禁裏や畿内の地侍らに対する巧妙な外交折衝によって、信長は大きな利益を得たのである。その後、織田政権の基盤が固まると、私の存在価値は次第に薄れてきた。京都での政治の上部組織は直臣団に管轄させ、下部組織の事務官僚は、逃げ出した第十五代将軍の足利義昭が京都に残していった幕府の者たちから、人材を抜擢した。これができるようになると、信長は、私の官僚組織に頼る必要がなくなってきていた。
信長としてはその能力と人脈から、私との波動の違いを我慢してきたが、ここにきて、私の能力も人脈もいらないところまで、直臣の力が強大になってきているのが、信長にはわかってきたし、一方の私にも判ってきていた。
信長という恐怖の君主
安土城の各層の座敷に、群青、緑青の濃絵に描いた狩野永徳の筆が飾られていた。賢者、儒者、仙人天女、天人、三皇五帝などの絵は、信長が、彼らの誰よりもすぐれた最高の存在であると、見るものに悟らせるために選んだ画題として選んだらしい。
信長は全国から数百体の神像や仏体を安土城に集めていた。彼はそれを崇拝したのではなく、それらに、自らを崇拝させる儀式を、毎朝、繰返していた。私は、信長が自らを地上最高の神と思い込んでそうしているのか、諸大名への示威のためにそう言った姿勢をとっているのか、真意をつかめなかったが、恐怖にみちた君主であるのは間違いないと想った。