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超自伝 明智光秀

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 これに先立ち、私は三好党との戦いや本願寺との戦いに従軍したが、殆どは二条城の警護であった。にもかかわらず、元亀二年(1571)には、近江滋賀郡と宇佐山の志賀城を与えられた。更に、九月に比叡山の焼き討ちが行われ、山麓の焼け跡に坂本城を新築し、五万石の大名にしてもらった。浅井に動かされた比叡山と本願寺に対して、私は和議を図るように、信長に進言して三日の有余をもらって交渉して帰順の文書を持ち帰ってくる最中、なんと、信長は攻撃を開始してしまい、結局、比叡山を焼き払ってしまった。これで、私は面子丸つぶれ。信長は、「馬鹿な奴め、あと一時間早ければ。」と言ったものだ。

 さて、待遇のことだが、この当時、秀吉でも、こんな待遇は受けておらず、私の務めた京都奉行の仕事が認められたのだろう。しかし、これは、経過をみれば、喜んでばかりはいられないことだった。そして、私は、これまでずっと主従関係として、義昭から下久我荘の年貢米や雑税をもらっていたが、坂本城主になってから、二重の家来の仕事はできないので、義昭との主従関係を断ったのだった。




第四章 私の悩み

 家老と傭兵と同盟者の違い
 
 私は天正十年(1582)五月十三日、信長から、甲斐攻めの疲れを癒せと非番という休暇を貰い、安土城から三日前に琵琶湖を船に揺られて坂本城に帰ってきた。私は甲斐征伐から信長に従い、四月二十一日には安土に帰ってきたが、その後、五月十四日には、信長の嫡男の信忠が甲斐から凱旋し、莫大な戦利品を信長に渡していた。この甲斐征伐で、信長の領国はついに、三十
三カ国になった。

 私はこの様子を見ながら、想った。

 「信長は、日本の天下を平定したら満足するのだろうか」

 宣教師フロイスは日本史に、風聞として書いているらしい。「信長は毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主になった暁には、一大艦隊を編成して、支那を武力で征服し、領国を自分の子供たちに分け与える考えだった」と。

 私はこのことについて直接、信長の本心を訊いたことがある。それは、私の目指した目標、天下平定による戦争のない平和な国にすることから、かけ離れたものだった。私の悩みはここから一層大きくなっていった。
 安土城下で凱旋する将兵たちの祝宴が開かれる中、五月十五日に同盟者である徳川家康が、武田の武将で投降した穴山梅雪とともに安土にあらわれ、家康は駿河一国の加増に、梅雪は旧領安堵の礼を述べにきた。私は信長から、この家康一行の饗応を命じられた。十四日は長秀が家康一行を饗応していたのだが、四国の長宗我部元親征伐で主将、信長の三男の信孝を副将として補佐すると言うことになり、私に、この仕事が廻ってきたのだった。

 信長は、四国攻めの兵を大阪に集め、自分も、淡路島にいく予定だったので、家康一行の訪問は内心は迷惑だったのかもしれない。しかし、相手は同盟者であり、信長は自分の威厳をしめしたかったのだろう。そうこうする内に、五月十七日には毛利の高松城に水攻めをしている秀吉から、増援依頼の急報がきた。信長は、四国攻めを取りやめて、毛利との決戦を急ぐ決断をした。信長は堀秀政を秀吉のもとに派遣し、当面の措置をさせつつ、私とその組下の細川忠興、池田恒輿、塩川吉太夫、高山右近、中川清秀、筒井順慶らを先手として出兵を命じてきた。
 家康の接待に当たっていた私は、このために坂本城に帰ってきたのだった。饗応は、長谷川秀一らに交代した。饗応は廿日まで続いていたが、十九日の丹波猿楽を舞った梅若太夫が不出来だとして折檻し、信長が家康の前で、自制を失うできごとがあったらしい。この後にフロイスは日本史という本で、この時の信長と私のことについての風聞として、「ところで、信長は奇妙なまでに、親しく、彼を用いたが、このたびは、その権力と地位を一層誇示するべく、家康らのために饗宴をすることを決め、接待役を彼に命じた。これらの催し事の準備について、信長は、密室において彼と語らっているが、彼から自分の好みに合わない意見を言われると怒ったというが、しかし、これは、密室の中のことであり云々」などと書いているらしい。

 脇からみれば、信長と私の関係は実に面白いものだったろう。信長は、私を本質では嫌っていた。時として波動が合わなくなったからであろうし、私は、ただの傭兵でしかないと言う意識があったからだろう。信長は昔からの重臣たちは、もともと自分を"うつけ"として廃嫡しそうになったくらいのものたちだから、信用もできないし、仕事もそうできる連中ではないと想っていた節がある。それに比べて、私や秀吉は非常に重宝な傭兵だと想っていたはずだ。

 天正八年(1580)には、私はついに畿内の大将にされ、近江滋賀郡五万石に坂本城、それに加えて丹波一国二十九万石と亀山城を使わせてもらった。これは、京都に対する備えであり、信長が私を有能な傭兵として割り切っていたからだと想う。一方、この年の四月に、織田家の最大の勢力をもっていた、佐久間信盛が嫡子とともに追放されている。罪状は、五年にわたって何の手柄もなく、世間が不審がっているということ。それに引換え、私や秀吉や恒輿らの働きは天晴れだと誉められている。この一事からも、信長の傭兵戦略がみえてくる。この時、細川忠興、池田恒輿、塩川吉太夫、高山右近、中川清秀、筒井順慶らが、私の指揮下に属したのであった。
 私は佐久間親子への過酷すぎる処罰を非常にいたましく想った。信盛は、信長の父信秀の代から家老として、主要な戦いにはすべて出陣し、戦功を立ててきていた。信盛は信長と行動をともにしてきたのであり、信長の落度としてあげたものはそんなに大きな失敗ではなかったと想う。
 八月になって、信長は家老の林通勝、重臣の安東伊賀守親子の知行を没収して、追放した。通勝の罪科は二十四年前に、柴田勝家とともに、信長の弟の信行を織田家の後継者に擁立しようとしたことであった。しかし、その後、信長に忠誠を尽くしてとともに戦ってきていた。

 何ゆえ、今なのか。その時、一足先に信長に寝返った柴田勝家にはなんの咎めもなかった。

 美濃の強豪として知られて安東伊賀守は、十三年前の永禄十年(1567)に、武田勢を美濃に引き入れようとしたという罪科で処断された。難敵石山本願寺を征服できるめどがたった頃から、昔に過ちを犯した家老への粛正がはじまったのだが、それ以後の忠誠の年数や戦功などはまったく意味をもたないという信長の猜疑心が自制できなくなった証拠だと私は想った。
これほどの猜疑心は、ちょっと他の人間には考えられないものだ。傭兵は、切り取りした土地を褒美にやればよく、次の切り取りのために、それまでの城をとりあげれば、一層奮励するものだと想っていたようだ。傭兵は、天下統一の折には国内には要らないものたちだとも考えていた節がある。傭兵は、支那という切り取りごめんの場に送りこむつもりだったのかもしれない。
 日本は、自分の子供と親戚と家康などの同盟者で支配し、傭兵を送り込んで勝ち取った支那はまた、子供を送りこんでいこうという、世界占領の野望をもっていたと想われ、これが、フロイスが書いた風評になったのだと想われる。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦