小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

超自伝 明智光秀

INDEX|5ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 「その方の言うことは、判った。ところで、なんで、細川藤孝ではなくて、その方が岐阜に来たのか」という。
 「それは、新公方さまが、美濃に猪子殿という知り合いがいる私を、まず殿のもとにつかわし、上洛のご催促を伝えさせようとの事でした。殿にご承知いただければ、さっそく一乗谷に帰り、新公方さまからの上洛依頼の、ご内書をもらって、お取次ぎいたします。」と、私。
 「もっともなことだな」と信長。
 このあとで、信長は、私がまったく予期しなかったことを言ったものだ。
 「その方、今から、私の家来になれ。知行はさしあたり、朝倉と同じ五百貫にして、その後は働きぶりでいかようにもするぞ。」
 私はびっくりして、顔をあげ、思わず答えていた。
 「それは、とてもありがたいことです。殿の申し出、謹んでお受けして、一生懸命働きます。」
 これが、二人の運命の出逢いであった。それにしても、即断即決のふたりであった。

 最初の驚き

 居間での会見の後、信長が私の鉄砲の腕を見たいと言うので、岐阜城の射撃場で試し撃ちをすることになった。ちょっと、自慢したので、やってみせろというのだ。信長は、射撃場の責任者である佐兵衛というものがそこにいないことにきがついて、佐兵衛が慌てて走ってくるのを見るなり、「お前の日頃の行状は聞いている。」と罵った後、許しを得ずに、持ち場をはなれたという理由だけで、私の眼の前で、その男を手打ちにしてしまった。まあ、会社でも仕事中に、自分の責任部署にいないというのは許されるはずはないので、叱るのは私も当然だと想ったが、いきなり手打ちにするというのは、いささか、恐ろしかった。
 信長は、このように、周囲を取巻く家来たちに対しても、決して気を許していなかったようだ。それは、決して、この時代の武将に共通なものではなく、生まれてから後天的に信長に備わった猜疑心ではなかろうか。この猜疑心が何歳頃から発したかは定かではないが、信長自身が、押さえきれないものであったと想われる。
 ただ、尾張美濃を平定したあと、これ以上望まず、領民にとって善い殿様で納まれば、こんな猜疑心は、必要はないと想うのだが、信長はそれでは満足しなかったのだ。彼は、何処までも拡大思考であり、私を通しての、この新公方の申し出は、渡りに船だったのだろう。まさか、傭兵となった私への見せしめのためにしたわけではないだろうが、それにしても、明智城や朝倉氏の下ではなかったことであり、私には、最初の驚きであった。

 私の目標は、天下の平定であり、当時の武将を比べると上杉や武田ではなく、信長がその目標達成に一番近いと感じたので、猜疑心が強く、気性も荒く、おそろしい人柄ではあるが、ひとまず、ついて行こうと決心したのだった。まずは義昭を将軍にするのが、最初の目標だったから。




第三章 足利義昭の上洛と信長の支配

 信長が義昭と改名した新公方を擁して、上洛の支度を整えたのは、永禄十一年(1568)八月だった。信長の六万の大軍は、当時の将軍義栄を押す六角承禎や三好三人衆の抵抗をものともせず上洛し、義昭を第十五代の将軍につけた。
 ところで、私が仕えてから、この頃まで、この猜疑心のつよい信長が四度ほど、無防備になったことがある。しかし、その時は、事なきをえている。私は、彼を運がつよい人だと想った。その後、私は義昭の将軍政治と信長の軍事政権の間を取り持つ庶務の役割をすることになり、とっても忙しい毎日だった。
 信長は、表向き将軍義昭の後見人の立場を務めていたのだが、実際には、幕府のすべてを監視して、制限を加えていた。そこで、義昭は信長を自分に家来として従わせるために、足利の家紋や副将軍の地位を与えようとしたが、信長は一切受けつけなかった。信長がそんなことで、家来になると想った義昭は、生まれ着いてのボンボンでしかなかった。家柄や肩書きで人を動かせると想ったらしい。現代でもよくある話だが。
 信長が、最初から将軍義昭を傀儡幕府にして、織田軍政で天下平定に向おうとしていたのだと、私は気がついていた。そうこうする内、義昭は越前の朝倉義景との間に、信長追討の密書を取り交わしたらしいが、それを信長は察知した。二条城の竣工の祝いに、信長から義昭名義で出仕するようにと朝倉義景も呼ばれたが、義昭との関係を訊かれて殺されかねないと思ったらしく、上洛しなかった。彼は、文弱な男ではなく、やる時はやるのだと、私は想った。
 信長は浅井氏に妹のお市を嫁にやった時に、朝倉氏への攻撃には、浅井氏と相談すると約束をしていたが、この場合は相談すれば引き止められるし、一方で、朝倉攻めを延期すれば、織田政権の威令が落ち、勢力バランスが崩れると考えたので、当然、朝倉への攻撃を開始した。この事件は、義昭の将軍という名で何でもできるという依頼心と天下盗りの野望に燃える信長の非情さが引き起したもので、私としては、浅井と朝倉には同情を禁じえない。

 この時、浅井氏では、遠藤喜右衛門と言う人が、「信長と戦えばお家は滅びる、信長の一味になれば、お家繁盛疑いなし」と浅井氏に提言したというが、一方で、取り交わした起請文の約定にそむき、朝倉を攻める信長は信じ難い」という久政の感情論を、満座の家来が支持したために、信長を迎え討つことになったと聞いた。この戦いで、その遠藤喜右衛門が、戦場で信長と刺し違えようとして、雑兵の首を持って、"浅井の侍大将の首実検をしてくれ"と信長まであと数歩に近づいたが、後ろから引き倒されて最期を遂げたらしい。引き倒したのは、彼の顔を知っていた竹中半兵衛の弟の久作であったという。遠藤喜右衛門にしてみれば、さぞ残念だったろう。信長は、またしても、運良く危機を脱している。
 天正元年(1573)八月、信長は朝倉義景一族を滅亡させ、つづいて、小谷城の浅井久政、長政をせめて自害させている。この時、信長は、久政の妻から、唾をかけられ、「表裏の猿猴」と罵られたので、毎日、彼女の両手の指を二本ずつ切り落とし、すべてなくなってから、磔にしたという。

 「これは、天下を太平にする男のすることか?」と、誰でも想うだろう。

 また、同じ年の九月十日、かつて、近江で信長を狙撃した杉谷善住坊が捕らえられると、生きながら、土中に立たせて埋め、七日かけて竹鋸で首を挽かせて殺したという。

 「ああ、何たる非道、この男は、異常だ。」

 更に、天正二年(1574)、信長四十歳、私四十六歳の春。岐阜城に年賀にきた公家、大名、信長の武将たちは、酒を振舞われたが、その酒の肴に、浅井長政と朝倉義景の頭蓋骨に漆を塗り、金箔をはったものがだされた。これは、私もみせられたが、困惑して顔が上げられなかった。私は、信長の常軌を逸したとしかいいようのない残酷さに、恐れを感じ、これらの信長の行為を止められなかったことに、慙愧の念が湧いてきた。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦