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超自伝 明智光秀

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 この年の夏、足利十三代将軍足利義輝の執事、三好長慶が死ぬとその配下の松永久秀が幼い主君義継を無視して横暴な振舞いをし、義輝を廃して三好氏の育てた義栄を十四代将軍にしようと陰謀を企てた。この事件で義輝が死に、出家していた弟ふたりは、末弟は殺され、奈良一乗院の覚慶は興福寺に幽閉される。いずれは彼が殺されるとみてやってきたのは、洛西長岡勝竜寺城にいた義輝の遺臣だった細川藤孝である。覚慶は永禄九年(1566)二月に還俗して、足利義秋(後に義昭)と名乗った。八月になって三好勢が襲ってきたので、義秋は細川藤孝らを連れ、琵琶湖を渡って逃げ、十一月末に朝倉義景を頼って、一乗谷の朝倉館に入ったのだった。
 朝倉義景の館では、義秋を元服させてあげる。しかし、それ以上はしてくれない。そこで、私がこの将軍の弟のためにいろいろと尽力することになった。この時、「この人を将軍にして、別な政治体制での天下統一万民太平を創りあげたい。」が、私の願いになっていた。この人は、出家していたわりに、還俗してからは、ちやほやしてくれる取巻きが欲しくてしかたない人だった。私はとってもすごい奉仕をしてあげたものだった。
 しかし、時が乱世でなければ、私が義秋に出会うことはまずなかったのであるから、なにかしら前世からの縁をさえ感じる。義秋は、朝倉氏に上洛の手伝いをさせたいと想ったのだ。しかし、当時、義景は嫡男の阿君丸(母は小宰相局)を失ったことでがっくりきていたらしいのと、越前一国の安定を第一義としていたようで、義昭を将軍に擁立し上洛する意思を見せなかった。

 私は、「義景は立派に越前の国を治めている。文武に優れた武将である。文弱の武将ではないのだが、今、義秋を擁立して上洛することは考えられない状況なのだ。」と感じていた。

 そんなことをしている間に、永禄十年(1567)九月、私は細川藤孝の勧めで義秋の家来になった。朝倉氏に仕えているのだから、二重家来だ。しかし、当時、朝倉氏が将軍の家来とすれば、その家来の、私も将軍の家来だから、それでもいいことだった。その頃、信長が美濃一国を手中に収めたことを知った。この時に、初めて信長のことが、私の頭に上ってきた。

 「信長が、尾張と美濃を統一した。彼の環境なら、上洛ができるかもしれない。」

 運命の出逢い

 私は細川藤孝と相談して、足利義秋の内命を受けて、永禄十年(1567)の暮に、岐阜の信長を訪ねた。この面会は、私の知り合いであった猪子平介という人が信長の侍大将になっていたので、この人のつてで実現したものだ。この時、信長は重臣もいれない自分の居間に、私を招きいれて、ふたりだけで話をきいてくれた。私自身のことや要件のことを暫く訊かれたあとで、私はやっと眼をあげて、信長の顔をみて、想ったものだ。
 「私はもう三十九歳、信長は藤孝と同じ三十三歳、義秋は三十歳。しかし、信長は歳では計れない何か磐石の重みを備えているようだ。今まで逢った人には、このような人はいなかった。」
 信長は穏やかにふるまっていたが、私はなんとなく威圧される想いがしたことを憶えている。 あとで、小耳に挟んだのだが、永禄元年(1558)京、堺方面を視察にでていた信長が美濃の刺客に狙われて、八風峠を越えて尾張へ帰国する際に小倉右京亮実房と言う人に道案内してもらったらしい。このことで、実房は信長と通じたとみられ、上司の六角義賢(承禎)に切腹させられたらしい。
 この時に、信長が刺客の手にかかって命を落としていたら、その後の信長の偉業はすべてなかったものである。つまり、小倉右京亮実房は信長の命の恩人であり、かつ、時代の変化の流れをつないだ恩人であるといえる。信長は、安土城ができたときに、寡婦となっていた実房の妻を安土に迎えて側室としている。お鍋の方と言うのが、その人である。信長は、彼女の子供も取り立ててやったらしい。信長が命の恩人の家族に示した配慮をあらわすエピソードである。
 もうひとりの妻、吉乃ともエピソードがある。彼女も土田弥平次に嫁いだが、弥平次の戦死という悲運にあい、兄の生駒家長が住む生家に帰ってきた時、そこで、信長に見初められて室となり、信忠、信雄、徳姫を産んでいる。信長は、美濃の国、斎藤道三の娘の濃姫を正室に迎えているが、子供がなく、吉乃の方が正室のようになっていたようだ。
 さて、こうした信長とお鍋や吉乃との結びつきは、美人であったとかの理由はあろうが、信長は幼少から生活の中で母の愛情を受けることが少なく、お鍋や吉乃に母性愛を感じたのではなかろうかと、私は考えている。信長は、父信秀の命令で、生まれてまもなく、那古野城主となり、両親と別れて乳母や重臣たちと暮らしている。これは、父の信秀が信長を最初から自分の後継者として認めたからであろう。信長がうつけといわれようと、父は諭すことはなかったのが、その証拠ではないかと、私は想う。
 この嫡男の育て方は、当時は当たり前だったのかもしれないが、信長は乳母の乳を噛み切ったりしたようで、乳母が何人か代わったという。彼は、今の言葉でいえば、常に母を意識するマザコンだったのだと、私は推定している。だとすれば、いろいろな奇行は母の気を引くためだったと理解しうるのだ。そうでなければ、「うつけ」といわれてもいい分けのしようがない。
 その母親が傍にいる弟の信行(信勝)を可愛いがり、柴田勝家、林通勝などの重臣が弟を盛りたてて、後に、信長に背くことになった。この原因は、兄弟争いではなく、信長の謀略による旧主家や親戚などが殺害されたことから、重臣たちに危機感があったのかもしれないと、私は観ている。この後、信長は、一族間の争いにうち勝っていくが、ついに、弟との確執は悲劇的な結末を迎える。信行の謀反は、一回目は母の仲介で許されたが、二回目は、もう見逃せる状態ではなかったのかもしれないが、柴田勝家らが信行からの離反を確認してから、謀反を捏造して謀殺したのかもしれないという推察もあるようだ。そうだとすれば、信行の無念は残ったであろう。何れにしても、信長の尾張統一には親戚がらみの戦いが多く、双方の消せない想いが残っていると想われる。

 信長が十八歳の時、父信秀が四十二歳の若さでなくなった。その後、お守役であった平手政秀が自殺した。信長が二十歳のときである。政秀の死は、いっこうに、うつけのような行状を改めない信長に対する諫死であったとされる。信長は政秀を弔うために政秀寺を建立しているので、流石の信長も内心、後悔したのかもしれない。尾張一国の統一という信秀と信長二代に渡る仕事は、その間に行われた謀略と殺戮によって、確実に達成されたのであり、当時いわれていたような、「うつけ」殿ではなく、戦いと謀略の天才だったようである。
 別な面が出ているエピソードがある。領内の津島の盆踊りに家臣や自分も仮装して加わった事で、領民が喜び、城下まで踊りの列を連ねて、御礼踊りをしたというのだ。信長は家臣の国人や地頭らには厳格に対処したが、その下部にいる地侍や農民には年貢や普請のへの人足要求の面でも、かなり気をつかったようである。

 さて、朝倉に仕えた経緯とか知行などを訊かれた後、信長が私に聞いた。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦