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超自伝 明智光秀

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 明智城が落城した時に、既に、いったんすべてを失い、一介の浪人として生きてみた。今更、物欲に溺れることはない。生まれてからこの方、私は、いろいろなことを学んできた。その中で、私の心眼に明確に見えてきたものがあった。それは、「人間は偉そうにしていても、自然に打ち勝てるものではない。」ということだった。「自然が人間に教えているのは、すべて均衡だろう。均衡することのない乱世はそれに照らせば、人間の愚かさを顕している。この世からすべての戦を無くさねばならないのだ」という想いが私の中に芽生えたのは、この流浪の時だった。
 この乱世に平和をもたらしたいという想いで、私は真っ直ぐに歩き出したのだった。心の中には、早くなんとかしたいという気持はあったが、人間の人生は単純なものではない。これからみる何人かの人々の人生は乱世という劇画の主要な配役のようにも見える。歴史は、強者の論理で書かれるものだろう。ひとりひとりの想いは、本当は違うところにあったのかもしれないのに。

 私は、歴史の記録を単純に信じてはならないと忠告しておきたい。



第二章 信長との出逢いまで

 放浪時代、私はなにをしていたのか。落城する明智城を脱出したのは、弘治二年(1556)、私が29歳の時だったが、一緒に脱出した一族郎党を祖父の館に残して、私は、表向き、見聞と出稼ぎをかねて、諸国を渡り歩いた。その間、なんと六年間。もちろん、稼ぎは、時々ちゃんともって帰ったから、みんなを餓死させることはなかった。みんなは、みんなで、農業の手伝いなどをしながら、私の帰りをまっていてくれた。実は、私の本音は、誰が一番の武将であるかを探すことであった。つまり、私は、この「乱世を平定できる誰か」を探して、その武将に仕えて、協力して天下を平定し、人々に太平をもたらすというのが、確かな人生の目標になっていたからだった。
 この間には、武田と長尾(上杉)の川中島での合戦が何回か行われ、大抵の浮浪浪人はそちらに出稼ぎに行っていたらしいが、私は武田と長尾(上杉)には興味がなかった。彼らは、その時の状態では、互いに相手がいるために、その場所から離れて上洛し、天下を睨むことはできないと感じとったからだった。
 もう一つ、永禄三年に、上洛しようとしてやってきた、今川義元と、尾張一国を統一したばかりの信長との桶狭間での戦いがあり、この戦いに奇襲して勝った信長は、これから、美濃の後略にかかったのだった。私は、この結果も聞いたが、まだ信長に興味は湧かなかった。

 一乗谷の朝倉氏に仕える

 永禄五年(1562)になって、私は一緒に明智城を脱出していた親戚の光春(三宅弥平次)、光忠(明智次右衛門)らとともに、越前一乗谷の、朝倉義景の城下にやってきた。この時、私、既に三十五歳だった。当時の人生50年からみれば、もう残りが少ない。まして父や母はこの歳には亡くなっていたから、そろそろ行動に移そうという気になったのだ。
 室町以前の守護・地頭という制度は、司法・警察権は持っているが、行政権はもっていないとか、司法・警察権は持っていないが、収税権をもっているように、軍事権、司法権、収税権が分離された中央集権的な支配であった。これが長く行われているうちに、すべてが形式に堕落し、非支配層の人々には不満がつのってきていた。
 私は、このような仕組みは嫌いである。なぜなら、最も底辺の人々に、生きる目標がなくなってしまうからだ。どんな仕事でも、ただやらされて、結果の果実をむしりとられるのでは、努力しない方がましだということになる。

現代の企業でも、このような仕組みがあるかもしれない。それでは、発展しないだろう。勝手に計画をされ、それを果たせと命令し、成果を横取りするような仕組みは、働く人々を萎縮させるだけだ。
「上司は目標と凡その予算と利益の数値を示し、部下たちは、その実行計画と実行予算を策定する。上司は、その実行計画を精査して、自分でもやれるなら、承認する。」
私は、これが当然のことだと判らないものには、管理者になって欲しくない。自分でもやれないものを、「よし、やってみな。」とか、「俺が責任取るから、やってみろ。」なんて、いっておきながら、あとで、馬鹿呼ばわりするのは言語道断。実行中は、部下は上司に、全体の経過と問題を主体に報告し、対策についても、協議し、アドバイスをしてもらって、実行を続ける。結果の成否の責任は、部下にもあるが、上司に最大の責任がある。したがって、上司は部下の評価をする時に、部下と自分の責任を切り分けて、実施しないといけない。首を切る人は、それを終ったら、自分の首をきらねばならない。これが、私の持論だ。

 話が、現代に飛んでしまった。戦国時代に戻ろう。

 さて、そんな中で発生してきた戦国大名たちは、軍事権、司法権、収税権その他一切の行政権をもち、一地方を殆んど完全に領有する独立政権として機能するようになってきた。守護・地頭制度では、農民は農作機械のようなものであり、ただ搾取されるのみであり、人間として生きることは赦されていないようなものだった。これは、酷いことである。一方、群雄割拠の戦乱の時代ではあったが、私の生まれた時期は、領民の痛さも理解でき、収税への配慮もできる形で、地方の独立政権が成長していく過程であり、戦国時代で、この仕組みは出来上がるのである。
 世の識者たちには、この大名が、どんな風に、領国のみんなのやる気を起こさせるか、楽しみだったろう。

 さて、私が一乗谷にやって来た理由は、朝倉氏が、足利将軍とのかかわりをもっていたこと、もう一つ、当時の越前国は「しずかにておさまる国」と京の公家から羨ましがられていたというのを聞きつけたからであり、そんな国の大名である、朝倉義景とは、どんな人物か、興味をもったからだった。朝倉義景の幼名は孫次郎延景だったが、室町幕府十三代将軍足利義輝より偏諱を受け「義景」と改名したらしい。
 家督相続後は、教景(宗滴)の補佐を受け、無難にこなしている。だが教景が亡くなったあと文弱に流れたと言われるが、必ずしもそうではなかった。国は無難に治めていたが、朝倉義景の悩みの種は内乱ともいうべき一向一揆であり、同じく一向一揆に悩む長尾景虎(上杉謙信)と連携し、景虎が川中島へ出陣した際に、その背後を守るために、加賀国に攻め込み一向一揆と戦っている。この加賀の一向一揆が朝倉の部将、青蓮華景基を攻めてきた時だった。朝倉家に仕えたばかりの、私は、光春、光忠ら一族とともに、一揆の攻撃を退けるのに貢献し、正式に知行をもらうことになり、やっと故郷の明智から旧知のものたちを呼び寄せた。
 現代の教科書の記述によれば、長享2年(1488)、加賀で一向一揆が蜂起し、守護の富樫政親を打倒し、「百姓の持ちたる国」が成立したかに想ってしまう。が、実は「百姓の持ちたる国みたいであるが違う」という記録の一部を書いているというのが真実で、つまり、百姓たちの国ではなかった。百姓たちは、やはり、ひもじい想いをしていたし、普通の農民一揆とは違う様相のものであった。

 時がたつのは早いもので、朝倉に仕えて既に三年、永禄八年(1565)、私は三十八歳。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦