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超自伝 明智光秀

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 私は、小さい時から、あまり詰め込みの学業などは好きになれなかった。まあ、当時、学校などはないから、気にする必要はないのだが、それでも、当時の嫡子はいろんな勉強をさせられたようだ。私の場合は、叔父はまことに物分りが良くて、私の自由にさせてくれていた。叔父が比叡山にのぼって、入道したと聞いた時、私は不思議だった。私は、そのころには、人の生きる道は自然に学べばいいと学んでいたから、叔父の「入道する」と言う行為に疑問をもった。
 ただ、頭をそるだけで、何かを認識できるとか、俗世のことに欲はなくなるとか、そんなことは考えられないことだった。よく考えてみると、叔父は父の城だったものを、その子の、私に返してやりたいと言う気持があったのと、私への忠誠という意味で、頭をまるめて、仏門に入ることにしたものらしい。

 「そんな馬鹿なことはする必要はないのだ。叔父は立派な城主であり、よく領国を治めているのは、領内くまなく歩いてきた、私が一番よく知っている。私の出る幕ではないのだ。」

 そう考えた私は、「私はまだ、その器ではありません」と、叔父の申し出を固辞して、叔父を比叡山から迎え下ろしたのだった。しかし、当時の弱肉強食が正義とされた時代では、血縁の情は欠片もなく、親兄弟が攻め合った時代であり、このような考えをするのは非常に珍しいことと想われるかもしれないが、私と叔父はふたりとも、それで納得できたのだ。
 私は、他所の武将の息子たちとは違い、肩書きとか権力とかには興味がなく、自然を利用した築城の技術や火薬や鉄砲などの新しい技術を学ぶことが好きだったし、それを利用して、領内の人々が幸せに暮せる手立てを考えるのが好きだった。自分では、武家以外の血が流れているなあと感じることがあるが、これは高貴な身分らしい祖父の血ではないかと想う。この仕事をするのも、どうやら、そこら辺りの想いが心の奥底から上がってきているせいかもしれない。
 私がねばったものだから、「よし、判った。それでは二十歳になるまで、城を預かろう」と、叔父光安は承諾してくれた。しかし、二十歳になっても、私は城主にはならなかった。「学ばねばならぬことが山ほどありますから。」といって、再び許してもらって、気が向くままに諸国の寺社や城を巡り、知識と知恵の幅を広げていったものだ。

 世襲のような社長にならずに、平社員で好きなことをしているのは素晴らしいことだった。社長は本当に立派な人がやればよい。それも、本当に社員とその家族、また商売のお相手や利用者やお客様のことを本当に考えてやれる人でなければならないのだ。私はそれをできる器ではなく、その下で働く平社員でしかなかった。平社員は学んで、本当の経営者に近付くことが大切なのだ。
 さて、これらの経験から得た知識と知恵は、その後の私の仕事に大いに役立っている。
 私は天文十四年(1545)、十八歳で斎木勘解由の娘、お熈(十六歳)と結婚した。私は、お熈に一目惚れした。そして、祝言の日に、妹のお八重がやってきたときには困惑した。聞けば、お熈が疱瘡を病んで、顔に痘痕ができたというので、私に合わす顔がないので、斎木殿が困ってしまい、どうせ、私は顔まで覚えてはいないだろうというので、妹を替玉にしてよこしたという。

 「まったく、もう、がっくりきた。私は、顔で女性に惚れてはいないぞう。」

 お熈はとても、聡明な女性だった。この人も、宇宙人だったと今にして想う。まあ、いろんなエピソードもあるが、ここの主題ではないから、いずれ、別の機会に書いてあげたい。
 さて、私は結婚しても、城には止まらず、諸国をまわり、学び続けていた。築城の知識も身につけているが、その基本は自然の要塞から学んだものである。当時の城で、安土城の次に素晴らしい城は、琵琶湖に突き出た坂本城だったと誉められたものだ。ああ、あれは私の設計と築城したものだよ。自慢している。

 戦乱に巻き込まれる

 当時は、まったく、第二次大戦後の日本のようなもので、明智の政治とはまことにかけ離れた状況にあったものだった。弘治二年(1556)四月、一介の油売りからなりあがり、守護の土岐氏に仕え、土岐頼芸を追放して、美濃一国を領した斎藤道三が、長子の義竜に家督を譲りながら、弟の孫四郎、喜平次を溺愛したことから、義竜は道三と疎遠になり、家督を奪われるのを阻止するために、二人の弟を殺し、道三に対して挙兵した。闇屋のおじさんが身代を築いたら、その子が俺によこせと親の財産をねらうと言う構図である。この構図は、実は、戦国だけではないようで、今の世の中にも、わんさとある。ここまでとはいわないが、親の財産や遺産のとりっこで、戦う子供や親戚の浅ましさは、みられたものではない。
 子供たちの喧嘩をみたくないなら、親は何も残さないにこしたことはない。当時の私は財産も作ってないし、また欲しがりもしなかった。だから、叔父やみんなと仲良く生きていられた。しかし、このような下克上は、この時期には多くあり、親兄弟が争うことも多かった。原因がどちらにあったにせよ、このように殺しあったことは、双方にとって悲しいことだったと想う。そんな時代の中でなければ、仲良く生きられただろうに。
 私の家柄で、父以前のことは、今一つ本当かどうか明確にわかっていないが、私の叔母に相当する小見の方が道三の後妻に入っていたという。この挙兵に際し、叔父の光安が義竜の味方をしなかったことで、義竜の軍勢が明智城を襲ってきたのだ。

 これは、悲しいことであった。

 道三親子が戦ったために、このような悲劇はうまれた。踏み潰す前に、話し合いがあったならよかったと想う。明智の城兵は僅かに380人しかいなかったのだから。当時、尾張の清洲には、この物語のもうひとりの主役の信長がいた。信長の妻、帰蝶は道三と小見の方の子であるので、私といとこであった。この関係から、私は信長のことは少し、聞き知っていた。
 道三は信長に援軍を求めたようだが、間に合わず、義竜に討たれ、今や、明智城も落ちる寸前であった。叔父光安が私を呼び、「ここは、女どもを連れて落ちてくれ。ひとまず落ちて、明智の再興を図ってくれ。」とこう、いわれたのである。
 「なんと、それは叔父上の言葉とは想われません。この城に育った、私、この城と運命をともにしたい。」と、心にもないことを言いつつ、一度は、反論はしたが、叔父の息子たち、光春、光忠らとともに、城を抜け出して、祖父光継の館のあった櫃が沢へと脱出した。私は、死ぬ時は、寿命以外はだめと決心していたから、叔父たちに死んで欲しくなかったし、ましてや、自分と家族も死に至らしめる気はなかったから、叔父の言葉に従って、落ち延びたのだった。この時は、自分の頭で、意外と冷静に対処したと想う。

 この時、弘治二年(1556)九月、私、数えで29歳。ここから、私の流浪の日々が始まったのだった。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦