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超自伝 明智光秀

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超自伝 明智光秀

副題 消し去られた武将、光秀の想念を読む        作 芝田康彦


もちろん、これはフィクションである。今の時代、信長や秀吉や家康が、経営者や政治家などの見本のごとくあつかわれ、他の者たちには、余り光があたらない。つまり、強者の論理がまかり通り、弱者は歴史の中で、不当に扱われ、光秀などは逆臣でしかも、三日天下の馬鹿者として笑いものにされてきた。作者は、この「残念という想念」を捉えたので、その光秀の想念を読み取り、ここに「超自伝」という分野を拓きつつ、書き連ねたものである。


第一章 本能寺襲撃の本心を明かす。そして、その根拠となってくる、光秀はどんな人間だったのかについて、語っている。
第二章 信長との出逢いまでの想いを語っている、
第三章 足利義昭の上洛と信長の支配を語る中で、信長の人間性の欠如を語る。
第四章 そんな信長と知ってからの、傭兵としての光秀の悩みを語る。
第五章 そしてついに、冒頭で決心した、本能寺の襲撃について語る。
第六章 山崎の合戦で破れ死んだとされたが、実は小栗栖では死ななかった。その理由を明確にする。天下統一万民太平の夢。実は、これが光秀の掲げた目標であった。この目標のために、全てを律してきたのであって、本能寺はその一里塚でしかなかった。そのために、死なずに、家康と繋がることとなったことを語る。
第七章 信長、秀吉、家康についての思い出を語る。
第八章 徳川幕府の鎖国の意味を語る。鎖国は太平堕落へとつながり、明治維新という第二の本能寺の変が起きたと語っている。
第九章 そして、今現在の日本や世界の国々には、実は、新しい本能寺の変が起きなければならないと語る。
第十章 新しい本能寺の変とは何か。実は、光秀が天正十年に、本能寺の襲撃を仕掛けた時に決心した、目標は、この地球の未来への布石となるものだったのだ。
   
追記  地球人類を救うために
                                 作 芝田康彦






第一章 「私、光秀」はどんな人間だったのか

 坂本城の天守閣、私の居間にて

 天正十年(1582)五月二十五日の夜、私が、本能寺での事件を決行すると決めたのは、ほんの一瞬であった。くよくよと考えたものではない。しかし、私も人の子、そのあとで、それでいいのかどうか反芻していた。私の頭の中で、繰返し次の想いが舞っていた。

 「今考えていることの顛末は、私が天下を平定できれば、それでよし。しかし、失敗すれば、信長に対するただの謀反であると伝えられ、信長の仕打ちと秀吉の台頭への怨恨によって、主君を殺す逆臣という汚名を残すことになるかもしれない。もともと私には天下盗りへの欲はない。信長を討つ理由は、そんなものではない。もっと重要なことだ。これは、ここまでの私の人生で学び、実現しようとしてきた、平和への道の一里塚でしかない。この機会はあとにも先にも、今しかない。それにしても、私のこの決断もあまりにも急で、自分でもついていけないくらいだ。どうも、どこかからのインバルスを受けたようだ。私は性格的にみても、信長亡き後、天下に君臨する器ではない。政権を天皇に返すまでの仕事だ。失敗すれば、一族郎党を犠牲にすることになる。これは痛ましい限りだ。しかし、私の内部に"実行せねばならない"という想いが沸きあがるのはどうしようもない。身内のことを考えている暇などないのだ。天下のためだ。」

 このような、私の思考は実はもってうまれた性格である。判断は、実に速い。あまり私利私欲には拘らないのがいいところ。と書くと、良い子ぶっているようだが、本当だ。
 何か大きなことを実行するには、T(時)P(場所)O(機会)の三つが確実に揃っていないと成功しないことは誰にでも判ると想う。目的意識がはっきりしていたら、TPOがそろった時には、万難を排して実行するのが成功への道であると、私は確信している。
 だから、誰かの後ろ盾があるとか、共謀したとかの計画は、私の頭にはなかった。一大事を計画する時は、絶対に誰かに漏らしてはならないのも、鉄則である。予め誰かに漏らしたら、よいことでも、悪い事でも同じであり、実現しない。理由は、あなたにもおわかりだろう。
 私は、生来、参謀性格であり、大将になる性格ではない。だから、自分の私利私欲で信長をなきものにしたのではない。信長が居なくなった後、みんなと仲良く手をつないで、戦によらずに、天下を平定して、朝廷に政治を返すのが、私のたった一つの望みであった。

 だから、予め自分の身内に配慮するようなことはなにもしていなかった。どうして、私がそんな人間になったのかについては、今から述べよう。


明智城までのこと
 
 ここで、私の生まれについて書いて置きたい。後世いろいろな系図が書かれているが、実は、こうである。
 
 私の実父は、美濃石津郡多羅城主であった進止信周と言う人であった。進止というのは、荘園の支配者の意味だから、正しい苗字かどうかはすでに、定かではない。そして、縁あって明智光綱の養子になったのである。養父の光綱は若くして亡くなり、明智城は、光綱の弟であった叔父の明智光安が、私の後見として明智城の城主になっていた。実父の室であり、私の実母である人の父、つまり私の母方の祖父は、なにか高貴な生まれの人であると、私は実母から聞いて知っていた。私はこの誰か判らない高貴な祖父の血を引いており、武術などではなく、理知的な才能をもらっていたと想われる。
 養父母は早死にした。昔の寿命は短かったが、それにしても早すぎ、養父の手紙などによる記録はまったくないらしい。私の記憶にも、なにもない。
 ついでだから、ここで書いておくが、人は、殆んど永久に進化する生命の本体を担っているというが、この人生での必要な時間、つまり寿命を生きないと、すぐにまた生まれて、残りの時間を次の人生にするようだ。しかも、次の人生では、残りの時間だから、もっと早く死んでしまうから、親は嘆くだろう。だから、人は、自殺するとか、死刑にされるとかは絶対にしてならないと、私の意見を述べておきたい。

 私が十六歳で元服させてもらった天文十二年(1543)に、光安は城を譲ろうとして比叡山に登り、入道した。私は物心ついてから、十六歳までの十年間に、いろいろなことを学んでいた。大抵は領内の酷く年取った風にみえる老人だったが、どうみても、人間離れしている人が多かった。あの人たちも宇宙人かも。彼らが教えてくれたのは、人は、身分とか家柄とかで価値が違うのではなく、みんなおなじ価値だということだけであった。そして、私がどう生きるべきかを自分の頭で考えろと言われたものだ。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦