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超自伝 明智光秀

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 江戸時代を通じて長期的な経済成長、特に市場経済の成長が見られ、17世紀から18世紀初めは高成長、18世紀初めから18世紀末は停滞、18世紀末から19世紀は緩やかな成長という3つの局面が存在していると評価されているようだが、もちろん農業生産は頼れず、何処の藩でも、非農業生産へと転換していった。
 幕府の政治が安定し、貨幣経済が生活に浸透するに従い、人々は贅沢を好むようになっていった。商業の発達で商人は富を蓄えて力を伸ばし農村では自給自足経済が揺らぎ始めていた。
 これを背景に、幕府の財政は支出超過となり、財政の建て直しと物価安定のため、享保、寛政、天保の三つの大改革が行われた。こうした改革は、時代の進展に伴って変化する風潮を無視して、古い封建思想を押しつける形がとられたので、時代が進むに従って、人々の反発を買い、改革の効果も上がらなくなっていった。
 日本が鎖国の中で太平の夢へと実験している頃、世界は大きく変貌した。1668年、イギリスは名誉革命によって議会制民主主義への道を開き、続いてフランスも1789年の革命で王政を倒した。そして18世紀後半に起こった産業革命で資本主義に突入し、植民地と資源を求めてアジアヘ進出を始めた。

 一方、カムチャツカ・アラスカを支配下におさめたロシア、捕鯨の寄港地、太平洋横断航路の設置をもくろむアメリカも、アジアに関心を示し、日本に対して開国を要求するようになった。
 こうした状況の中で、1840年、イギリスと清(中国)との間でアヘン戦争が起こった。アヘン貿易による資本の発展と市場獲得を目指すイギリスに対し、清は百害あって一利のないアヘンの貿易を禁止、両国は戦争に踏み切ったが、イギリスの圧倒的軍事力の前に清は敗れ、不平等条約を結ばされるに至った。
 長崎町年寄高島秋帆などの識者は、アヘン戦争での清の敗北を重要視して、富国強兵・庶世一致を唱え、西羊式砲術で諸外国の侵略に備えることを説いたが、鎖国政策の継続が困難になると、これらの意見を取り入れて洋式砲術を採用し、開国へと大きく傾いていった。

 明治維新は再びの本能寺

 その革命は、次のように進んだ。この革命にも、多くの人々の出番があった。
 江戸幕府三大改革 ⇒ 黒船来航 ⇒ 日米和親条約 ⇒ 将軍継嗣問題 ⇒ 日米修好条約 ⇒ 安政の大獄 ⇒ 公武合体 ⇒ 尊攘運動の激化 ⇒ 連合艦隊が長州を攻撃 ⇒ 第一次長州征伐 ⇒ 倒幕運動 ⇒ 薩長連合成立 ⇒ 第二次長州征伐 ⇒ 大政奉還 ⇒ 王政復古 ⇒ 江戸城無血開城 ⇒ 戊辰戦争開始 ⇒ 新政府誕生 ⇒ 西南戦争
 上記の推移は歴史に記録されている。しかし、すべてが真実かどうかはわからない。
 しかし、この革命によって、日本は一気に、他国と同じレベルに堕落していった。つまり、他国を侵略するという暴挙にでていく。これらを指導した人間たちの飽くなき私利私欲に、一般の国民は知らずに協力していった。浅ましい結末になってしまった。
 歴史は繰り返えしている。つまり、再びの本能寺のあとは、信長の想い、秀吉の朝鮮出兵にいたる私利私欲とまったく同様に、為政者たちは、外国への侵略戦争へと突き進んでいったのだった。
 誠に、人間の浅ましさである。当時の誰ひとりとして、これに責任の無い者はいないだろう。
 この物語の中での、すべての犠牲者の残した残念を理解してあげられたら、幸せなことである。




第九章 新しい本能寺への布石

 第二の本能寺、それは明治維新だった。
 ここまで、私は、自分がしたことは何だったのかを明確にして、単なる私利私欲による野望や怨恨などで、信長を亡き者にしたのではないことを縷縷と書いてきた。
 更に、今の停滞した時代に、日本人が信長を待ち望むというような風潮がある。人々は信長の一部分のみをみて英雄にしたてているが、必ずしも、そうではない部分も認識する必要があろう。また、秀吉や家康についても、実際以上の評価をしすぎる風潮があり、例えば三英傑などと称されて崇められている。
 しかし、私の行動の意義を理解した日本人は殆んどいないようだ。いれば、光秀待望論が出てもいいのではないか。大半の人々が、ただの主殺し、謀反だと想っている証拠であろう。
 「英雄待望論」の風潮には、歯止めをかけなければならないようだ。
 理由は、信長や秀吉や家康の想いを継いでいる人々は既に今の世の中に生きているからである。小信長も、擬似信長も、今の世の中には、わんさといる。
 実は、この人たちでは、この世は、天下統一万民太平にはならないと、私は想っている。
 私は、第二章で、日本の中での「閉鎖された島国、日本での天下統一万民太平」への実験のことを書いてみた。私が描いたのは、本当の「本能寺の変の目標であり、その原因と結果だった」ということである。

 あの実験は、徳川幕府の政治下での、為政者、官吏、人々の全部に甘えと私利私欲が支配したために、堕落に至るのは、眼に見えていたが、まあ、私も寿命が300歳とは言えなかったので、「第二の本能寺」というべき、明治維新へのしかけをするために生まれてくれたのが、この男である。

 明治維新のきっかけ

 幼くして桂家の養子となり、桂小五郎、長州藩主の命により木戸貫治に改めた。松掬(しょうきく)と号し、いみなを、孝允(こういん)といった。長門の国(山口県)萩呉服町に生まれ、長じて長州藩士岡本権九郎より漢学を学び、「吉田松陰」の教えを受けた。また江川太郎左衛門らについて西洋の砲術・兵学を学び、さらに神田孝平らより蘭学を学ぶなど、早くから開明的方向をめざし、後年天皇制絶対主義官僚へと成長していった。
 藩主の命により長州藩藩政の指導的位置につき尊攘(そんじょう)論から討幕論へと藩論をみちびき、また、薩長連合密約の終結に尽力するなど、倒幕運動推進に大きな役割を果たした。
 王政復古するとすぐに、「五固条の御誓文」の修正に関与し、また版籍奉還の実現に努力した。
 西南の役が起こったとき、旧薩摩藩の不平士族の反政府暴動にも、また板垣退助らを中心とする士族民権運動にも、反対したが天皇制絶対主義政府内部の大久保利通独裁にも批判的態度をとった。西南の役の真最中に脳病により45才で死んだ。
 この人の経歴や思考傾向を見ると、第二章の、私が演じた「謀反人」の意識を引き継いでいると判ろうというものである。

 しかし、ここまでは、島国の話であった。

 その後、地球という閉鎖世界の本能寺が必要になってきた。今の世界には、信長国、秀吉国、家康国、諸々の戦国時代の大小名の国々がひしめいた、日本の中と同じ状態である。
 したがって、もはや、第三の本能寺が、地球規模で必要な時期にきているのだ。

 第三の本能寺はいつだろうか。

 既に仕掛けは開始されていると、私は想うが、この仕掛けは非常にゆっくりと機能し始めているのであり、何がどうなっていくかは、ここに書ける話ではない。この辺りで、先のことは若者たちにまかせよう。




 
終章  地球の国々の課題はなにか
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦