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超自伝 明智光秀

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 更に、二十四日には仏教各派の本山と本寺に対する法度を布告した。これで宗教界も徳川政権の支配下におかれることが決定したようなものである。大坂の陣は単なる豊臣家の滅亡だけの仕掛けではなかった。徳川家が絶対君主の地位を確立し、武家も公家も宗教界も、すべてを支配下に納めるための一大プロジェクトであり、万民太平への仕掛けを実行したものであった。

 元和五年(1618) 秀忠、譜代大名を全国に配置する。
 元和七年(1621) シャム貿易を許可する。翌年、朱印船貿易のために奉書船制度を定める。
 元和九年(1623) 七月二七日、秀忠は将軍を家光に譲位し、大御所として後見することになる。
 寛永九年(1632) 一月、秀忠死去。家光は幕藩体制の確立へ向けて専制を強める。
 寛永十年(1633) 二月、第1次鎖国令を布告する。十二月には改易した徳川忠長を切腹させる。
 寛永十二年(1635)五月、第3次鎖国令を布告、日本船の海外渡航を禁止する。
            六月に武家諸法度を改定し、参勤交代制を制度化する。
 寛永十三年(1636)長崎出島完成、ポルトガル人を移住させる。
            この年、正宗が他界した。
 寛永十四年(1637)十月島原の乱が勃発する。キリシタン弾圧を強化する。
 寛永十六年(1639)二月に島原の乱を平定する。
            七月、ポルトガル船の来航を禁止し、鎖国を完成させる。

 私は想った。

 「この時ようやく、第二弾の対策はできて、権力争いが終った。更に、ようやく、最期の仕掛けをする時期にきた。世界の国々は、自らの中で自立することがまず大切なことだ。自らの国の中で、衣食住を達成できなくて、何か太平なものか。為政者は国民の幸せのために、すべてをなげうって、働かねばならない。 
何故なら、自然はすべてにおいてバランスをしている。その自然の中で、人間はそのバランスを崩さないで、みんなが平等に生きるように、それぞれの役割をみたしつつ、生きていくことが、この自然の理に叶っているのだ。
 こんな簡単なことが判らないものが、人々の上にたつから、支配者になってしまう。朝廷も公家も武家も民衆の上に立つのなら、民衆への奉仕者としてでなければならない。底辺の民衆には、絶対の支配者などは、要らないものだ。徳川の幕藩体制は、この時期で天下統一万民太平を実験してみる、一時の凌ぎである。これは、世界の縮図なのだ。
 つまり、幕府はこの地球そのものだ。地球にはすべてにおいて限界があるのだ。その中に、国がひしめいている。これらの国々が藩に相当するのだ。各藩を委ねられた大名たちは、自分の一国の中で、本来の治めをする必要がある。もはや、隣を侵略することは許されない。ましてや、藩を横に結んでの宗教による支配なども、許されない。
 この仕組みで、政治のありかた、万民太平の実現のしかたを学ぶことが、この国には必要なのだ。延いては、ずっと未来に、この実験が世界に通用する理念となり、地球に戦争のない時代をもたらすための、見本になればと想う。
その為には、この国を地球に模した鎖国にしなければならない。少しずつ、家光殿を洗脳するしかないが。これが、私の願いであり、その娘の玉子の願いであり、わが友、正宗の願いでもあるのだ。

この策謀は、私ひとりでは、むりだった。家康の信任を得ていた伊達政宗が必要であった。彼は若いときに信長に似た処遇を受けているのが、不思議だ。彼もまたマザコンだったらしい。つまり、天正十二年(1584)、四十一歳で父輝宗は十八歳の政宗に家督を譲った。特に輝宗が病弱であった形跡もなく、一説に、政宗の実母最上殿が、政宗の疱瘡で失った片目とその性質をきらい、弟の小次郎に家督を継がせるべく策動していたので、輝宗が先を制して政宗を立てたともいう。
 このことは、私が正宗からじかに聞いたわけではないので明確には判らないが、信長にそっくりだ。政宗が実力で奥州を制覇していた時期はわずか5年ほどであり、この後、侵略や統一の戦はしていない。つまり、私欲で領地の拡大はしていない。信長とは比較にならないほど、人間的だ。政宗が小田原に出発する前日、母に食事に招かれたが、政宗の膳を膳番が毒見したところ、血を吐いて倒れたという。政宗は直ちに帰って弟小次郎を呼びよせ、これを斬ったといわれているが、これも本人に確認はしていないので、判らない。

家康が政権についたとき、外様大名はつぎつぎと江戸に参勤して妻子を江戸に居住させ、家康に、二心なきを証明したものだが、政宗は諸大名に先がけて子の秀宗をいち早く江戸に送っている。正宗は慶長十六年(1611)ごろ、宣教師パードレ・ソテロを通して切支丹に興味をもち、城下での布教を許したが、同十八年(1613)にローマに派遣した支倉常長が、元和六年(1620)に日本に帰る間に、切支丹禁止令が発せられたため、帰国した常長を牢につなぐことになったこともある。彼も、キリシタンを超えて、自然の法則にたどりついていたかもしれない。親しく聞いてはいないが。
 徳川家光が将軍就任のとき、諸侯を集めて、祖父家康、父秀忠は諸侯の授けを得て将軍となったが、自分は生まれながらの将軍であるから、すべての大名は、今後、臣従の礼をとるべきだ。異存があれば直ちに国元にて一戦の準備をされよと言ったようだが、この時、政宗は居並ぶ諸侯の前に出て、政宗はもとより、諸侯にも異存のあるはずがありませんと平伏したので、みな同じように頭を下げたようだ。
 正宗は、誰とでも、よく付き合ったので、時に謀反に加担したと疑われたりしたが、実際にそんなことはなく、家康、秀忠、家光の将軍三代に仕え、天下の平定と万民太平に尽くしていた。

 家光の政策については、私と正宗は、ともに協力して進言していたもので、鎖国政策は完全に実行されていった。その正宗もまた、寛永十六年に私より早く亡くなってしまった。私も早くあの世に帰りたいと思ったものだ。
 寛永二十年(1643)十月二日、私は、上野の寛永寺で没した。(享年108歳)

 太平は頽廃に堕落した

 日本で徳川幕府が実施した鎖国政策の結末は、当然、私には見ることはできなかった。
 この試みは、一つの強引な政策として、それができる島国という環境をもった日本であったからできたものであろう。鎖国は、国の外に資源を求めずに、人口と経済成長と衣食住も含めた文化の高度化の三つのバランスを取れるかどうという閉鎖システムの実験である。
 この時期の人口の増加をみると、1600年の1200万から、1872年の3311万人と推移しているが、 人口増加率は、1600−1730年の間は0.756%、1730−1800年の間はマイナス0.065%、1800−1872年の間は0.107%となっている。各家での産児制限もふくめて、人口の爆発にはいたっておらず、なんとか経済とのバランスを意思していたようである。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦