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超自伝 明智光秀

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 「本能寺で信長の出番が終ったのは、天正十年(1582)年、私は55歳だった。秀吉が、出番を終ったのは慶長三年(1598)、私は、七十一歳だった。そして、大御所の出番が終ったのは、表向きは、元和二年(1616)、私は八十九歳になっていた。時は、足利幕府の末期、足利から朝廷による支配権を取り戻そうという意識の働きだした頃であり、そろそろ、被支配者層による不満が鬱積する時期にきていた。

 これは、自然の法則での万物の共存共栄という理念からみれば、間違った社会構造であり、それは崩れる宿命にあった。これは、いつの社会や、組織の中でも常に起こりうることで、自然なことである。そんな変化する社会には、必ず、必要な人間が現れているのは、歴史が証明しているはずだ。ただ、歴史はすべからく、勝者の論理で、勝者を美化する小説のように書かれているので、後世の人々にとっては、真実は藪の中だといえよう。

 天正の頃は、足利幕府に対する不満が爆発して、あちらこちらで一揆や暴動がおき、主家を倒し、親兄弟親戚で地域の支配権を争った時代に突入していった。
 この時、私は、自分が何をするために生きるのかについてのインパルスのようなものを感じ取ったのだった。そして、時期を定めたのは、足利義昭との出会いであり、上洛に一番の尾張美濃という場所にいた、信長との出会いが、すべてのきっかけになって、政治の変革へと走りだしたのであった。
 信長は運だけではなく、力と性格と環境を用意されて、義昭との出逢いをきっかけに、私の探しもとめた、必要な男の出番がきたのだろう。一方、信長からみれば、これは自分の目論見に、ぴったりのことだったし、ついでに、私を傭兵にしてしまう。これは、用が無くなったら、いつでも切れるというのが、信長の本心だったろう。
 信長は支配圏が拡がるにつれて、親の代の旧体制での部下はまったく信用できず、代って傭兵を巧く使いだしていた。私はもちろん、秀吉もそうである。傭兵は言ってみれば、ヘッドハンティングである。探そうと、相手からやってこようと、それはどうでもよかった。
 しかし、信長は最期には、近臣だけを信頼していたかもしれない。信長は知っていたかどうか判らないが、近臣たちを通さないと信長には会えないようになっていた。大将の権勢を傘にきたものたちの、自然の行動である。これも、時代を問わず、存在することだ。この時期、秀吉は逆に、近臣に取り入るということで、この仕組みを巧く利用していたようだった。
 本能寺で、信長の出番が終ったのは、正に時と機会と場所が、そこに用意されたものであり、私の考えた、天下統一万民太平への舵は、ここで大きく方向を変えたといえよう。ここで変えなければ、日本は、世界に対する大きな過ちを、この時にしてしまったであろう。
 信長がいなくなって、最も得をしたのは、もちろん、秀吉であろう。私にすべての罪をなすりつけて、信長の狂気を廃して方向転換したという大きな仕事を、私からうばってしまったのだろうから。そして、私に関する歴史的な事実は、その影で消されていくのだろう。

 しかし、秀吉に止まらず、当時の信長を取巻く武将のほとんどは、信長の狂気に気がつきながら、何もせずに保身しており、私の行為に安堵したのではなかったのか。秀吉は、信長と私と言う大きな重しと競争相手を一度に消して、いってみれば、二人の業績をすべて最初から全部を我が成果として、その続きやったのだ。
 いってみれば、創業社長と競争相手の常務が同時に消えて、残りの常務が他の役員を蹴飛ばして、平社員の社長の息子を立てて自分が実権をにぎるというものだ。しかし、こんなことはよくある話かもしれない。秀吉は、商売人にしたらよかったと想う。たぶん、お金儲けが巧い。例えば、千成瓢箪などを売るとか。秀吉にあやかろうと言う人には、売れたであろう。
 秀吉の天下が殆んど一代で終ったのは、ただの雇われ社長のような立場に等しいからであり、築いたものは私利私欲からのものであり、信長のような、自分の目標もなく、私のような万民太平への認識などはなかったからであろう。
 最期に行った、支那への覇権を目論んでの朝鮮派兵は、信長を越えたいというただそれだけの示威行動ではなかったかと想われる。それにしても、唯々諾々と秀吉の命令に従って、朝鮮に渡った武将たちは、秀吉となんら変らない意識の持ち主とみえるが、どうなのか。まあ、秀吉の出番は、ただの中継ぎでしかなかった。他のものが何もしなくても、自然になくなる経過であった。

 「それにしても、家康と言う男は、変な男だった。長久手の戦いで、実戦で勝利したのは家康であったが、結果的に秀吉の政治力に家康が従ってしまった。そして秀吉の天下統一への流れは急加速したのだった。家康という男は、信長に信康を切らされても、忍従したし、この時も、変なことになっている。家康の性格は、今もって私にはよく判らない。本気で怒ったことがあるのだろうか。
 創業の会社の社長秀吉が死んでから、母の淀君という専務を後ろ盾にした、世襲のぼんぼん社長の秀頼を擁した常務の石田三成と外様常務の、家康の争い程度のことでしかない。
 日本の国を何とかしたい者には、まことに社内派閥抗争のような、馬鹿ばかしい戦いであった。結果はみえていたので、何もすることはなかった。
 大阪冬の陣と夏の陣は、もはや、待てなくなって、私が、家康を万民太平への、真の天下統一へと示唆した結果起こったことであった。

 家康は、天下の統一万民太平へのすべての仕組みを、優柔不断というか、なかなか実行しなかったが、やっと実行に移したのが、この東西最終戦であった。家康は、この最期の戦いで、出なくてもいいのに出陣して、真田幸村隊の猛攻の時に死んだが、これが表にでては、再度の弔い合戦になり、武将たちがどちらに味方するか判らない状況だったので、これは秘匿した。
 武家諸法度を出して、二度と、戦いが起こらない対策をしたあとで、家康の死を翌年に発表したのは、このためであった。
 信長、秀吉、家康と三人が天下の統一に、その出番を果たしてくれたが、万民の太平には何の寄与もしておらず、それぞれの役割はその程度だったということ。
 この後の、万民太平への仕事は別の人々の出番があったのだった。」

 さて、天下統一万民太平はだれが作りだしたのか。




第八章 地球を模擬した鎖国の試み

 元和二年(1616)秀忠は七月七日に伏見城に諸大名を集め「武家諸法度」を布告した。これは、徳川家が日本の武士の棟梁であることが未来永久に続くものであると宣言したようなものである。更に十七日には家康が二条城に公家集を集め「禁中並び公家諸法度」を通告した。公家衆は大騒ぎとなったらしいが、そのことを表に出すことまでをこの法度は禁止していた。天皇も公家も征夷大将軍の監督下におかれ、その限りでのみ自由が認められる。信長も秀吉も手をつけかねた聖域の奥深くまで家康は、大坂夏の陣の勢いをかり踏み込んだといえるだろう。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦