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超自伝 明智光秀

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 慶長八年(1603)二月十二日、徳川家康が征夷大将軍に就任して、江戸幕府を開いた。そして 慶長十年(1605)四月十六日、家康、将軍職を子の秀忠に譲る。そして、家康は、駿府の大御所となり 二元政治を行うようになった。慶長十三年(1608)、私は駿府を訪れ家康と面会をした。何を話したのかは、内証だから、後世には伝わっていないはずだ。家康が人払いして逢ってくれたものだ。そして、慶長十四年(1609)、私は徳川家康に用いられ、権僧正の官に任ぜられた。
 私は思い出していた。

 「あれは、確か、天正十八年(1590)の小田原征伐をして、秀吉が北条を破って天下を平定したときだった。あの折の鷹狩の時に、伊達政宗にであった。彼とは初対面であったが、文武両道に秀でた大名だった。駿府の徳川家康に面会できたのは、正宗の紹介もあって実現したものだった。」


 大阪冬の陣


 慶長十九年(1614)、徳川政権を安定させるためには、大坂城の豊臣秀頼と淀殿を確実に統制下におく必要であった。京都で、秀頼が念願であった方広寺の大仏が完成し、大仏開眼供養の準備が進められていた。この大仏建立は秀吉がやりかけて、完成できなかったものであった。秀頼の威信を上げようと淀君が使った費用は膨大なものらしい。同時に豊臣家関連の寺社の修復等に莫大な費用をかけている。これらの浪費は、豊臣家を疲弊させていった。これが一つの戦略だった。大仏が完成し、梵鐘も出来上がった。上棟式と開眼供養をしているところに、将軍秀忠名の「上棟と供養を延期せよ」という厳令が発せられた。

 理由は、梵鐘の銘文にある。

 「国家安康 四海施化 万歳伝芳 君臣豊楽 子孫殷昌」の、国家安康と君臣豊楽の二句に、豊臣家の陰謀が含まれているからだと、伝えたものだ。このことは、もちろん、幕府側が仕組んだわけではないから、この碑文の内容が伝わってから考えた策謀であり、開戦の理由が欲しい家康に誰かが進言したものだろう。さて、だれでしょう。
 陰謀がないというのなら、「秀頼の江戸参勤」、或いは「淀殿を人質として江戸へ送る」、或いは「秀頼の国替え」の、どれかを選択するように迫る戦術である。
 秀頼側はこれを拒否、各地に散らばる豊臣方の諸将を集め、挙兵の準備をしだした。
十一月十五日 家康、秀忠、二条城を発ち大坂へ向かう。戦いが進む毎に、家康から豊臣方に和睦を打診した。これは、私の進めもあって、戦乱を大きくせずに、豊臣家の力を落とすことを第一の目的にしたからだった。十二月十九日講和が成立する。はじめ和議に反対していた淀殿であったが、毎夜にわたる威嚇射撃や城内に向けてのトンネル工事、さらに天守閣に攻撃を受け、大坂城の二の丸、三の丸を取り壊す条件をのんで和議を呑んだらしい。実戦では5分5分だった戦いも、この講和戦略により家康側に有利に運び、戦後、二の丸、三の丸の堀を埋められた大坂城は裸城同然になってしまった。

 私は思い出していた。

 「まともに戦ったら、大変なことになったのだ。戦いは最小限にして、豊臣の威力をなくして、豊臣方につくものたちを諦めさせることが第一だった。私の期待したようになった。一つ目の段階は巧く成功した。」


大阪夏の陣
 

 翌年の元和元年(1615)、ついに最期の戦いになった。
 大坂冬の陣は、大坂城の二の丸、三の丸の堀を埋める事を条件に講和された。ところが、豊臣方が埋めるはずの堀を徳川方が埋めてしまったため豊臣方が抗議する。これはもちろん、最初からの戦術であった。これを反逆だといって、家康は、秀頼の国替えか城内の浪人を放つ事を要求したが、豊臣方が拒否したため、四月二十七日に開戦となった。
 そして、五月七日、家康本陣に幸村本隊が突撃した。真田軍、一世一代の奮闘を見せ、家康の旗本勢を蹴散らし、大将旗を倒すまでに追い込んだという。家康は三方ヶ原以来の屈辱を味わい切腹を覚悟したが、側近に諌められ、思いとどまったと後に伝わっている。真田軍は一度ならず突撃をくり返したが、三度目の突撃で幸村以下全員が討ち死したという。五月八日、豊臣軍、秀頼の正室・千姫(秀忠の娘)を秀忠のもとに送り助命を要請するが却下された。秀頼、淀殿、二の丸の糒庫に逃げ込む。井伊直孝の発砲により秀頼、淀殿自刃。真田幸村の息子、大助も秀頼に殉じたもよう。
 大坂城は焼け落ち、秀頼、淀殿母子が自刃したことで豊臣方は敗北。秀頼と側室の間に一男一女があったが、国松は捕らえられて斬首された。女は助命され、鎌倉の東慶寺に入れられたとされている。豊臣家は二代で滅亡した。戦国時代の幕引きとなった大坂夏の陣以降、家康は徳川政権樹立を加速させ、徳川将軍家による江戸時代へ本格的に移行する。

 私は想った。

 「あのとき、家康は、豊臣家を滅ぼすことになかなか同意しなかった。彼には秀頼を小大名としてのこす気が残っていたからだ。この戦いでも、豊臣に味方した者が多く亡くなっている。この戦乱の禍根を絶つには、豊臣の幻影を消去るしかなかったのだ。このことで戦乱の時代がやっと、終り、天下統一は確かに成ったのだった。その次は、万民太平の実現をしなければならない。
 しかし、実は、家康は五月七日の真田の攻撃の時に亡くなっているのだ。そして、この戦いで死んだとされた小笠原秀政が、以後暫く、影武者としての役を果たすことになる。
 武将小笠原秀政の室は、登久姫という家康の子松平信康と信長の娘の五徳との間にできた子だった。その小笠原秀政の娘の千代姫は徳川秀忠の養女として、初代熊本藩主細川忠利の室になっている。
 この忠利は、細川忠興とその室、細川ガラシャの子であり、細川ガラシャは、私の娘であるということは、まことに深い因縁といえるだろう。大御所はまだ死んではならないのだ。」

 この判じ物は、私にしか判らない。

 七月   幕府が武家諸法度、禁中並び公家諸法度を制定した。

 元和元年(1615)、徳川家康は大坂夏の陣において豊臣家を滅ぼし、幕府の基礎を磐石のものとした。次に幕府がとりかかったのは朝廷対策で、「禁中並びに公家諸法度」を出した。この法律により、公家・親王などの席次、三公、僧侶の任免と昇進、武家の官位や改元にいたるまで、朝廷の決定に対して幕府は口出しができることにしたものだ。 
 さらに京都に京都所司代が置かれ、これにより朝廷の行動さえ常に幕府に監視され、外部との接触を大きく制限されることになったのだった。これは幕府が、朝廷の持つ伝統的な権威が反幕府勢力に利用されることを極度に警戒した結果であった。その後も折りに触れて幕府は朝廷の行動になにかと干渉することになった。

 元和二年(1616) 三月、家康、大政大臣となる。さあ、行き着くところまで行った。

 四月十七日 家康 死去 享年75歳。もちろん、影武者は天麩羅などで死んだのではなく、姿をけして後、悠々と暮したのである。

 ここまできてみると、私には感慨深いものがあった。

 「元和元年の諸法度の制定で、武家と禁中、公家という力のある者たちを押さえ込む事で、徳川幕府は磐石になり、ようやく、大御所の出番が終った。」




第七章 信長、秀吉、家康への回想
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦