超自伝 明智光秀
兵数では信雄と家康の連合軍に優る秀吉であったが、長久手の戦いで敗北し、信雄と講和を結んで戦を終結させる。その結果、家康は軍を退却させ、信雄の取次ぎで秀吉と講和することになったようだ。実戦で勝利したのは家康であったが、結果的に秀吉の政治力が家康を従わせることになり、秀吉の天下統一への流れは、これから急加速したといえる。
天正十三年(1585)四月には、雑賀一揆を鎮圧する。七月には長宗我部氏を倒し四国を平定する。そして、従一位関白に任ぜられる。天正十四年(1586)十二月、大政大臣に任じられ、羽柴から豊臣に改姓した。
天正十五年(1587)三月、 九州征伐に出陣し、五月には、島津義久を倒し九州を平定した。島津義久は、日向・大隈・薩摩の統一を行ったあと、耳川の戦いで大友義鎮を倒し、さらに島原の戦いで龍造寺隆信を破って九州全土を支配していた。しかし豊臣秀吉の九州征伐に敗戦、秀吉に降伏して薩摩国を安堵された。
天正十六年(1588)七月、 刀狩令を発布している。
天正十八年(1590)三月、 小田原の役で北条氏を滅ぼし、九月、天下統一を達成したという。天下統一を望む豊臣秀吉は、中国・九州を平定し、残るは関東・東北となった。関東を支配していたのは北条氏政・氏直父子であった。秀吉は再三にわたり上洛を命じるが、北条父子はこれに応じない。天正17年、秀吉は北条氏に宣戦布告をし、各地から兵を集めて小田原城を包囲した。北条側は籠城策を取って小田原城に兵を集め秀吉軍と対峙する。三ヶ月にわたった戦いは、圧倒的な兵数と秀吉の策により、北条側の小田原城開城と氏政、氏照の切腹によって落着した。これで秀吉の関東支配が成就し、 続いて会津に攻め入った秀吉は、東北も支配。秀吉の天下統一が達成されたとされている。
天正十九年(1591)十二月、養子の秀次に関白を譲り、秀吉は太閣となる。
文禄元年(1592) 三月、 小西行長、加藤清正らを朝鮮に出兵させる。(文禄の役)
慶長元年(1597) 二月、 明使と講和交渉を行うが訣別し、朝鮮再出兵令を発する。(慶長の役)
慶長三年(1598) 三月十八日 秀吉、伏見城で死去。享年六十二歳。
文禄・慶長の役は、秀吉が,1592(文禄1)〜93年,1597(慶長2)〜98年の2度にわたって朝鮮を侵略した戦争である。全国を統一した秀吉は、国内の支配体制をさらに強化し,領土を広げようとして、明(中国)の征服を計画し、朝鮮(李氏朝鮮)に道案内をもとめたらしい。
しかし朝鮮がことわったので、二度にわたって朝鮮をせめた。はじめ,朝鮮の都ソウルを陥落させ北方まで進んだが、後に明・朝鮮の軍におされて苦戦し、1598年、秀吉の病死により兵を引きあげた。ここまでの戦いでも、多くの人々が犠牲になっている。無念の想いは、戦場はもとより、この地上をいつまでも漂うことになろう。
関が原の戦い
私は想った。
「ようやく、秀吉の出番は終った。信長が想っていたことを、秀吉もやってしまった。天下統一までにどれだけ多くの者たちが無念に死をとげたことだろう。戦いという力による支配では、天下の統一はできても、万民太平の世を実現するのは難しい。信長が尾張・美濃を平定した時分の下克上の世での戦乱の様相はおさまりつつあるが、今はまだ、信長時代から秀吉のしたことへの不満が、いまだに、武将たちには残っており、このまま安定するとは思えない。」
そして、見ていると、案の定、再び戦乱が起きた。
慶長五年(1600)九月、秀吉の死後、徳川家康の勢力拡大に危惧を抱いていた石田三成が、豊臣恩顧の大名を糾合し、徳川勢力の一掃を画策したのだろう。上杉討伐に東上する家康軍に対し、毛利輝元を総大将にした西軍が大坂城で挙兵、伏見城を攻略したという。この知らせを受けた家康は東軍諸将を西上させ、岐阜城を攻略した。東上する西軍と、関ヶ原で雌雄を決することになる。九月十五日、両軍あわせて15万を超える兵数が激突するが、戦いは西軍の小早川秀秋の寝返りによって、わずか一日で東軍の勝利となる。捕らえられた三成は京都で斬首されたらしい。
玉子のこと
私が、ふっと玉子からの想念を感じたと想ったのは、七月十七日の夕方だった。玉子は私の三女であり、天正六年八月、十八才の時、織田信長の声がかりで丹後田辺城の城主であった細川幽斎の嫡子忠興に嫁がせた。天正十年六月に本能寺の変が起き、玉子の父は夫の忠興を味方に誘うが、忠興はこれを断り、秀吉軍として出陣し、父と山崎で戦ったのだった。
玉子の実家と婚家が敵対関係となり、夫の忠興は、玉子を弥栄町味土野に幽閉した。玉子はこの地で侍女(清原枝賢の娘で、洗礼名マリア)の一人からキリスト教の話を聞きながら、味土野で二年間暮らしたらしい。その間に玉子も、神はいろいろあるが、その上には自然を創造した絶対のものがあり、絶対のものは、自然の中にそれ自身を顕していると感じたらしい。そして、人がみな、自然の法則にしたがって生きれば、この世には戦はなくなり、自然に万民太平になれるのだと想ったのだろう。
さて、秀吉にさとされ、忠興は再び妻として玉子を迎えることとなる。城に戻った玉子は、秀吉のキリシタン禁制の寸前に、清原マリアを介して洗礼を受けてガラシャ(Garcia)という名前を授かった。洗礼名のガラシャとは、ラテン語で「恩寵」の意である。子供は忠隆、興秋、他三子をもうけたようだ。慶長五年(1600)七月十七日、夫の忠興は、徳川家康に従い上杉征伐に出陣し、ガラシャは大阪邸の留守をしていたが、石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城入城を迫られた。
しかし、「私が人質として入城すれば夫の足手まといになる」と、人質を拒み、キリスト教が自害を禁じていたことから家臣(小笠原少斎)に長刀で胸を突かせて刺殺させ、館に火を放ち、落ちる屋敷とともに悲運の最期を遂げたと伝わってきた。
そして、辞世の歌として、
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
を残したと巷で噂になっている。この辞世は、誰かの創作だろう。なぜなら、玉子は、キリスト教の話を聞きながら、神というものへの信仰をはるかに越えた、真実の実体としての創造と自分の命のつながりを想いだしていただろうから、自分で散ることは絶対にしない。そんな考えは、明らかに当時の封建的なものごと、例えば家の名誉のために死ぬとか、自殺するとか、考えられなくなくしていたであろう。
それらを綜合すると、玉子はこのときには死んではいないはずだ。
自殺を禁止されているキリスト教で、胸を刀でつかせてまで死ぬというのなら、覚悟の死であり、遺骸をみせて、石田三成にみせれば、もっと効果が逢ったはずだ。しかし、小笠原少斎、河喜多石見、石見の甥の六左衛門とその子、そして金津助二郎と、その他の三、四人のものが切腹して果てたとされ、この後、轟音と共に細川邸は火に包まれたという。遺骸をみせなかったのは、玉子にそうする明確な理由があったからだ。
私と家康の出逢い