小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

超自伝 明智光秀

INDEX|11ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 「私はここで死ぬ訳にはいかない。信長を討ったのは巧く行って、人々はあの狂気の政治から抜けることはできそうだ。しかし、この度のことを見るに、大小名はみんな私利私欲があるために、秀吉の諜報活動に惑わされている。このままでは、秀吉が信長を真似て支配を開始するのは見えている。今、この天下を民衆が求める、朝廷を頭とした真の平和を実現していくものは、見当たらない。強いて言えば、徳川殿がいるが、秀吉は既に、信長の子を擁して、諸侯に君臨する画策をもしているようだ。
 このままでは、信長の狂気はなくなったが、最期には、小ぶりの信長然とした秀吉が天下を自分のものにするだろう。私はここで死んだふりをしても生きのびて、日本に平和な政権を実現するために、このあとも一生それを仕事にするのが使命だというインパルスを受けている。

 「一万三千の兵と一族郎党を犠牲にしてしまった。それでも、この仕事は、何か何でもしなければならないことだった。しかも、これでお終いではないのだ。どこかで、この身を亡き者にする事件を創らねばならない。委細は溝尾庄兵衛尉に任せよう。」
 
 小栗栖の林から、坊主が何人かでていった。誰も咎める者はいなかった。




第六章 天下統一万民太平の夢

 坂本に帰ると見せて、小さな庵へ

 私は、あの時のことに、想いを馳せた
 「この一生で天下統一、万民太平を実現すると決心したからには、死ぬことは考えなかった。ほとぼりの冷めるまで、あの庵には長いことお世話になった。」

 秀吉の天下取りの野望

 私による本能寺の事件は、秀吉にはまったくの渡りに船だったのだろう。明智の残党狩りや大将の首を探す気は殆んどなく、最初から、自分の天下取りの邪魔者にマークをつけて、それへの対処に走っている。表向き、信長の弔い合戦だから、信長の後継ぎをきめる必要があったのだろう。秀吉は柴田勝家、丹羽長秀、池田信輝らの武将を集めて、継嗣には僅か三歳の織田秀信がきめられたようだ。確かに、信長の正嫡、正統の孫ではあるが、信長の子は信雄、信孝もいる。この秀吉のおごりは、彼の天下への野望が如何に大きかったかを示すものだろう。この後継者の決定後、武将たちに、私と信長の遺領の分与を行って、他の武将たちの、猜疑の眼をそらしており、身内の戦乱にはならなかったのは、まずは領民にとっては、よかったのだろう。

 「なんとも、狡賢い人だ。」

 私の武将のひとり、勝竜寺城を守っていた斎藤利三は六月十七日に処刑されたと後に聞いた。
 「彼は、切腹はせず、わざわざ縄を打たれ、私の遺体と首がさらされている前で、「殿、あさましき姿になりましたなあ」と落涙したという話が伝わってきた。
 「私が確かに死んだと思わせてくれたのだ。利三よ、ありがとう。」
 私の親戚縁者は、私の縁者を返り見ない作戦行動に、どんな思いで亡くなったのだろうか。彼らの想いに答えなければならない。私は、彼らのことに想いをはせた。
 信長を討ってから、安土城の守っていたのは、私の女婿、明智秀満だった。ここに山崎の敗戦が伝えられると、一緒にいた武将たちの何人かは逃げてしまったらしい。秀満は坂本に帰って死のうと、みんなを連れて、城をでた。秀満は安土城を焼いてはいない。

 「実は、付近にいた信長の子息(信雄)が、なにを想ったか、安土城に火を放ち、これが町に燃え移り、町を全焼した」と、後にフロイスが書いている。

 秀満は何とか坂本城に入るが、坂本の留守のものは、私が小栗栖で死んだとの知らせをうけていた。秀満は、城と最期を共にしようと決め、三宅周防守と、荒木山城守ら重臣に金銀を与えて落ち延びるようにすすめたという。これも、私は後に聞いた話である。堀秀政が坂本城を包囲すると、秀満は死を共にするという武将たちと天守閣に立てこもるが、城にあるいろいろな財貨を失うのを惜しみ、堀秀政に送ったらしい。この後、私の子女を刺殺し、自らの腹をかき切り、煙硝蔵に火をかけ、主従もろともに灰燼に帰したというが、火事でおわるのは、あとが判らないので、真実は闇の中である。

 「坂本には明智の婦女、子供、家族親族がいた。また、大勢の人が逃げこんでいたが、羽柴は軍勢を率いて到着し、ジュスト(高山右近)は最初に攻め入ったひとりであった。この間に明智の一門は、多額の黄金を窓から湖中に投げこみ、ついでにもっと高い塔の上に閉じこもり、同所で、明智の夫人や子供を殺し、壁に火を放って自殺した。」などとフロイスは書いているらしい。

 フロイスの書簡では、「然して城中の緒人、その他の人々を熱心に斬首し、都の信長の御殿に差し出したるものは、一度に千余級に達した。・・・この斬首はかなり長く続き、多くの場所で行われた。・・・信長の御殿の前で、三十いくつかの首級を羊か犬の頭でもあるかのように、一本の綱でつなぎ売ろうとしているものがいた。この哀れむべき人々は、このような捧げものをするのが、もっとも、信長の霊を喜ばす行為であると信じているようであった。」と書かれていたらしい。
 信長は死んでまで、人々に畏怖されたのだろう。

 斎藤利三は、六条川原で切られた。しかし、彼には、四人の子女がいたが、いずれも、死をまぬがれたことは、ほっとするものがある。嫡男の与三右衛門尉は徳川秀忠に仕えて五千石を領した。利三と敗走している時にはぐれた利光は、矢張り徳川家に仕えて、五千石を与えられている。三男の角右衛門尉は、小早川秀秋に仕え、五百石を得るがのちに浪人したらしい。
 長女のお福は角右衛門尉の友人で、ともに小早川から退散した稲葉正成の妻になり、後に春日局とあらため、将軍家の乳母になった。稲葉正成も立身して二万石の領主になっている。

 「きっと、世に万民の太平を実現させてみせるぞ。安らかに眠ってくれ。」
 そして、私は、それ以後、天下の情勢をみてはいたが、直接の行動はしなかった。

 秀吉の天下平定への歩み

 清洲会議で、信忠(信長の長男)の子・三法師を推す秀吉と対立した信長の三男信孝をおし、決定に不満を持っていた勝家、信孝、滝川一益は秀吉打倒の兵を挙げた。そして、秀吉と柴田勝家が近江国賤ヶ岳で対戦する。佐久間盛政など歴戦の勇士を抱える柴田勢に対して手を出しかねていた秀吉軍だが、盛政の突出によって反転し攻勢をとる。秀吉軍は中川清秀の戦死など犠牲を払いながらも、加藤清正、福島正則など賤ヶ岳七本槍といわれた活躍で柴田軍を圧倒した。遂に前田利家の戦線離脱で柴田勝家は北ノ庄に敗走し、この勝利で秀吉は、織田信長亡き後の実権を掌握し、天下統一への道を開くことになった。天正十一年(1583)四月のことだった。 
 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家の勢力を除いた秀吉に対し、徳川家康や織田信雄は次第に警戒の色を濃くしていった。そして天正十二年(1584)三月、家康は後北条氏、長宗我部氏、佐々氏などを味方につけ、信雄と結んで秀吉に対して挙兵した。しかし、小牧山を本陣とした家康と楽田に進出した秀吉は膠着状態に陥り、情勢の打開を図った秀吉軍の池田恒興、森長可らは長久手の戦いで討ち死したという。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦