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超自伝 明智光秀

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五月七日、信長は、四国攻めに丹羽長秀と私のどちらかを信孝の後見人にする選択肢があった。中国の大将が秀吉であるから、四国には私を出していれば、今頃、私は大阪にいて四国に渡る準備をしていたはずだ。信忠は京都の妙覚寺に滞在している。信雄は領国伊勢にいる。信孝は丹羽長秀と共に四国侵攻に備えて大坂にいる。滝川一益は上野の廐橋城におり、柴田勝家は上杉方の越中魚津城を攻めている。秀吉はもちろん、備中高松城を包囲中だ。
 つまり、京都近辺で纏まった軍を率いているのは私だけだ。私が出陣する頃、信長は、京都の本能寺にいる。よし、この好期は今しかない。これを逃したら、如何なる手段を弄しても、私の一生の間に、日本に真の平和は実現しえない。私のなすべきことは決まった。これは、私にしかできないことなのだし、やらねばならないことなのだ。・・・・」と、心を固めると、私はごろりと横になった。

 敵は本能寺

 私は、五月二十六日、坂本城に長男の長五郎と、荒木村重の息子新五郎に嫁ぎ、荒木の謀反の時に戻され明智秀満と再婚した娘のお倫らを残して、3000の兵を引き連れて、居城である亀山城に移動した。亀山城では明智秀満、明智次右衛門、斎藤利三、溝尾庄兵衛らの指揮する軍勢13000が出陣の準備を整えていてくれた。

 五月二十八日夜半、私は居間に、婿の秀満を呼んで、この計画を話した。最期に、

「これは、どうしてもやらねばならないことだ。したがってくれぬか。」というと、

 秀満の答えは、

 「殿の決断に依存はありません。我等の命は殿に預けましょう。存分にしてください。」 
だった。

 「一切、口外は無用。」
 「委細、承知。」

 五月二十九日、私は備中への出陣に備えて、鉄砲や弾薬やいろいろなものを西国に向けて送り出した。あくまでも慎重に、備中への出陣の手はずのままにした。同日、一方の信長は馬廻り衆、小姓衆、女中等あわせて七十人程度で安土城を発ち京都に向った。信長は四条西洞院の本能寺に入っていた。

 信長の動向の情報を、二条にあった、私の屋敷の者から伝えさせていた。まだ、計画は、私と秀満の胸のなかであった。六月一日、情報によれば、信長は朝廷からの使者の訪問をうけたりしているらしい。この日の夕方六時頃に、私は亀山城の広間に、主だったものを集めて、こう伝えた。

 「先ほど、上さまの近臣から連絡があり、これからすぐに、本能寺に伺い、出陣の行列を上さまに見せることになったので、先手のものたちより、京都に向かうことにする。」

 この命令を発して、私は、胸中がすっと落ちつくのを感じた。 

「さいころは投げられた。」

 午前零時頃、亀山城の東、条野のあたりに差し掛かった時に、私は秀満に命じて、明智次右衛門、斎藤利三、溝尾庄兵衛、蒔田伝五の武将を集めて、この密謀を打明けた。彼らは私の考えに同意してくれた。
これは彼らも信長の行状に、私と同じような不安を感じていたのと、私を信頼してくれた結果である。沓掛の辺りで、全軍に暫く休みを取らせ、天野源右衛門を先手の頭として出発させたのは、味方から本能寺に内報するものを捕らえることが目的だった。 そして、ここからの出来事は、詳細はどうあれ、本能寺の変としてつたわっている出来事であり、信長とその子、信忠が自刃した。
 この時、信長の遺骸は見つからなかった。出火の折に火薬庫らしいものが爆発したが、それで信長らの遺骸が飛ばされたらしい。
 信長は、その支配欲によって、日本の半分まで制覇し、あと半分の平定もすぐ目前にしていたのであろうが、支配領国が大きくなればなるほど、彼の中に発する猜疑心は黒雲の如くおおきくなったであろう。その黒雲に自分自身がさいなまれ、何処まで行ったら、安堵できるのかと想っていたことだろう。信長は、自分の行く手を阻んで、猜疑心と疑心暗鬼の黒雲をなくしてくれるものを待ち望んでいたのかもしれない。だから、自ら、作り出した、京都の「真空地帯」をただひとりの男に提供したのではないか。それが、私であり、やられても、「是非に及ばず」ではなかったろうか。

 謀反の結末

 六月二日、私はこの時点になって、織田の緒将の対戦している敵方に、信長を討ったことを通報し、緒将が離れられないように依頼する手段を講じ、近隣の織田の家臣にも、投降するようにとの書状をだした。近江と美濃の緒将は大方味方についてくれたが、あとで判かったが、それ以外のことは殆んど失敗だった。私は、この謀反を前もって詳細に検討するとか、誰かとの密約したことは、まったくなかったので、結果がどうなるかは、考えてもいなかったものだ。

 それこそ、私自身が「是非に及ばず」でやるしかなかったのだ、からである。
 結果は、山崎の決戦での惨敗であった。

 この事件後の諸大名の動きは、私から見れば、理由がなんであれ、殆んどが、私利私欲に根ざしていたとしか想われない。 
 六月五日に、私の娘がとついでおり、私が頼りにしていた津田信澄が大阪城で自害したのは、痛恨の出来事であった。彼は、私の縁戚ということもあって、織田信孝、丹波長秀らに急襲されたらしい。彼を殺せと誰が指示したかは判らない。信澄は実は、弟の信行の子供であり、それでも信長から「一段の逸物」と評された男である。私の縁戚と言うだけの理由ではないだろう。この急激な大事件の中ですら、冷徹に自分の利益を先読みしているものたちがいたのだ。
 私には、当然与力してくれるだろうと想っていた者たちがいた。細川藤孝と忠興親子そして筒井順慶である。忠興には言うまでもなく、私の娘のお玉が嫁いでいる。この結婚は、当時の常識であった政略結婚ではなかったし、信長の声かかりでもあった。だから、細川親子が一番に味方してくれると想っていた。しかし、細川藤孝、忠興親子は、味方にはならなかっただけでなく、彼らからの密書が秀吉のもとにとどいたのは、六月四日のことであるという。筒井順慶とは、丹波攻めを共にし、大和一国の城主に推挙したのは、私であった。一時は、私の本隊とともに、大坂の信孝、長秀を攻撃しようとしたが、それを突然中止して、郡山城に篭城してしまった。

 彼らには完全に裏切られた。更に、中川清秀や高山右近もついてはこなかった。彼らには、秀吉からの、信長と信忠は生きているとの陰謀書簡が送られたようである。その状態をみた畿内の地侍たちも、私の誘いにのらなくなってしまった。毛利に送った、私の密書は秀吉に奪われたことから、すべては崩壊していったのは、残念だった。しかし、最初の信長を排除する目的は既に成っていたので、あとは精いっぱい戦うまでだ。

 小栗栖の真実

 山崎の天王山で秀吉軍を迎かい打つが、秀吉軍四万の前に、一万三千の、我が軍は敗北し、私とともに勝竜寺城に戻れたのは、溝尾庄兵衛尉ら千人にみたなかったという。千人で守っていても、夜明けには落城は必死であった。
 「夜の明けぬ内に、坂本に向かってください。私たちはこれから討ってで、最期の一戦に望みます。」という勝竜寺城の城代であった三宅藤兵衛を残して、溝尾庄兵衛尉ら三十余騎をつれて、午前零時に城外にでた。

 この時に、私は覚悟を決めた。
作品名:超自伝 明智光秀 作家名:芝田康彦