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掌の小説

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 彼が、自分の飼っている犬に老いを感じ始めたのはいつ頃だったろうか。あるとき、彼の差し出した手に反応して顔を挙げたその三角の顔を見て、あるいは顔ではなく毛のつやだったろうか、とにかく、彼はふと、「お前も老いたな」と思ったのだった。そのときは、自分の老いが犬に投影されただけかとも思ったのだが、今ははっきりと犬が老いたことを確信している。大きく開いた口、そしてそこに広げられた舌、鈍そうな眼、鋭い睫毛、平板な頭頂部、なだらかな体の起伏、細い脚、よく振られた尻尾、そういうものを記憶に焼きつけなければ、そう思っている。
 なぜ犬が老いたと思ったかといえば、毛につやと張りがなくなったからだ。そして、動作の瞬発力が微妙に減退したからだ。板壁に遮られず斜めに差し込んできた光を浴びて、茶色、黄土色、白の毛が光を返す、その返し方に以前ほどの力が感じられない。光を返すだけの弾力性、光を返すだけのうるおい、そういうものが明らかに減退した。毛が死にかけているように感じるのだ。そして、差し出した腕に、後ろ脚で立って前足でつかまるその跳躍の仕方、水を飲むときの舌の動かし具合、体をぶるぶる震わせるその切れ、いずれをとっても、以前のような、その度ごとに生命が芽生えるかのような敏捷さが失われているのだ。
 犬小屋は、母屋と、門へと続く板壁が交わる一隅に置かれている。家の表側から東側面を通って裏側へ行くには門を通らなければいけない。昔はこの門も開け閉めされていて、夕方にその木の門を閉めるのが幼かった頃の彼の仕事であったのだが、今ではずっと開け放たれている。犬小屋は、昔の木の厚い荷箱に入口をくりぬいて逆さまにかぶせたものだ。下には発泡スチロールが敷かれていて、小屋の中には座布団が二枚入っている。もちろんこの座布団は犬の毛まみれである。
 この犬の世話は彼の父親がやっている。PTAの役員で一緒だった後藤夫妻と、彼の両親は親交があったが、その後藤宅で生まれた子犬を父親が貰って来たのだった。母親は犬を飼うのに反対だった。どうせ犬の世話が自分に押し付けられると思ったからだ。母親は父親に、「お父さんの世話で手いっぱいだなあ」と、拒絶の意図を込めて笑いながら言ったそうだ。女性は拒絶を和らげるのが上手だ。だが、父親が、自分が世話をするからと母親を説き伏せて、生後2カ月の子犬を貰ってきたのだった。糞をスコップで取り、ビニール袋に入れてゴミ袋に入れる。側面がデコボコだらけの安い金属のカップの水を取り換える。このカップは、犬が時折前足でもてあそんでカチャカチャ音を立てるため、側面が白い線上の傷とへこみだらけなのだ。あともっと大きめで厚い金属の小さな鍋のドッグフードを補充する。父親は、近所のホームセンターから、一番安いドッグフードを買ってきていた。一番安いドッグフードは一袋でも量がある。だから夏場に虫が湧いたこともあった。
 彼が或る日、コンビニのバイトから帰って、働いた後の妙に高ぶった重い気分で玄関を開けると、居間の片隅に、段ボール箱が二重になっていて、そこに子犬がいた。四足で立ち、彼を見上げ、すぐにそっぽを向いた。彼は外出用のトレンチコートを脱ぎながら、幼い動物に特有の、美しい弱さに胸が高まった。それよりも彼の驚きは大きく、その甘い景色を十分に見ることなく、台所にいる母親にいったいどういうわけか訊いた。母親は、ガス台と流しのある台所の北側で、小さな蛍光灯をつけ、緑色のボールでハンバーグの材料を無心にこねていた。彼は事の顛末を聞かされた。母親の話を聞いているうちにも、子犬の悲しげなつぶれるような鳴き声が聞こえた。
 彼は一応大学には行ったものの、大学の講義はさっぱり理解できず、おまけに大学で友人ができるわけでもなく、出席の必要な講義以外にはあまり出なかった。彼は現代的で何の特徴もない、四角と丸みと灰色と白ばかりの講義室の一番後ろの隅に座り、教授の声を延々と跳ね返していた。理解できないのではなく理解してやらないのだ。それがせめてもの復讐のように思えた。アパートではずっとテレビゲームをやっていた。何を消費しているのか自分でも分からなかった。お金を使いすぎだと親に叱られることもあった。だが、お金を消費しているというのはどこか違う気がした。もっとなんというか、空気みたいな、水みたいな、そういう淡くて無機質なものを消費している気がしていた。インターネットで、同じくゲームが好きな人と何人かと知り合いになった。彼にとっての社会はインターネットだけだった。そこで人付き合いをある程度覚えた。他人と自分の違いを知った。違う他人を許容する愛情を憶えた。だが彼にとって他人はあくまでも彼の聖域に入ってきてはいけないものだった。例えば他人が自分のアパートに入ってくる、そんなことは絶対許してはいけなかった。彼の人格や学力を非難する、そんなことは許せない。このもやもやしているけれど彼の幼い自尊心によって求心的に秩序づけられた独裁的な聖域を彼は決して崩そうとしなかったし、崩す必要を感じなかった。インターネットでの付き合いは、彼の聖域を侵さなかった。あとは、ゲームレビューのブログを書いた。それだけで大学時代は終わり、もともと名の知れていない私大だったから就職もなく、実家に帰ってきてとりあえずバイトを始めた。そのとりあえずがもう6年も経つ。就職活動はもちろん行ったが、書類で落とされることが多く、運よく面接にまでいっても、面接で落とされた。
 彼ははじめ何度か犬を散歩させた。家の東側の竹林を北に折れて、畑沿いの土の道を通り、アスファルトの小道を右手に折れ、県道に出たところでさらに右手に折れ、果樹園の脇を通ってまた二回右手に折れて正面から家に帰ってくる。だがこの散歩は、とても手の焼けるものだった。犬はとにかく走るのが早い。鎖から解放されたことを悟ると、犬は背中を曲げて真剣に走り出す。それに負けじと彼も走るのだが、彼が本気で走ってもなお犬の方が若干速いのだった。そして、犬はなぜか果樹園の中に入り込み、そこの草などの根元の匂いをいつまでも嗅いでいるのだった。彼が引っ張っても動こうとしない。むしろ足を踏ん張って抵抗する。彼は何度か引っ張り、諦めたころ、犬はのろのろと歩き始める。犬は果樹園で楽しそうに舌を出しながら排泄することもあった。県道から彼の家への私道へと入ると、犬はまた駆けだす。彼も負けじと走る。だが、彼はその頃自分の足のサイズより大きな靴を履いていたため、その足音が無意味に大きく響くのだった。彼はそれが近所に聞えてしまうことに戸惑いながら、何かがつかえたような胸の高まりと鼓動の強さに疲れてしまうのだった。もう散歩はしない。そう誓っても、そのあと何度か散歩をした。
作品名:掌の小説 作家名:Beamte