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掌の小説

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錯誤



 飯島壮太は35歳の会社員だった。彼は長身で精悍な容姿をしていたが、頭の毛は少しだけ薄くなりつつあり、それが悩みの種だった。だが、それとは別の、それとは異質の悩みがある日彼に起こった。右上腹部に不快な痛みを感じ始めたのだ。朝起きてみたら、脚から腹を経由して胸にかけて、軽い痛みの膜が薄く揺れ動いていた。やがてその痛みは右上腹部に集中し、刺すようだったり澱むようだったり軽く動くようだったりして、常に腹の皮が張っているように感じられた。彼は布団の上であぐらをかいて(あぐらをかくまでの体の動きで特定の姿勢になると痛みが何度か走った)、シャツをめくって恐る恐る痛みの源を探し始めた。皮膚が感じやすくなっていて、彼は慎重に指を滑らせながら痛む辺りを軽く圧迫した。少し痛みが増すような敏感な部位で、彼はしこりのようなものがあるのを感じた。胆石ではないか。彼は不安で少し意識が遠のいた。父母とともに暮らしていたが、父母に無性にすがりたくなった。父母はまだ寝ていたが、揺り起こそうかとも思った。誰かの声を聞きたかった。そしてその声に自分の悩みを応答させたかった。
 とりあえず、インターネットで「胆石」をキーワードにして検索してみた。とある病院のサイトを見つけた。症状として、やはり右上腹部痛というのがあった。そこには、胆石の詰まった胆嚢の写真も掲載されてあり、人間の臓器が病的に、しかも異物のようなもので侵されている、その無邪気な悪意に満ちた写真に、彼は恐怖を感じた。彼が自分が胆石ではないかと疑ったことには理由がある。同世代の同僚から、彼が胆石が少しずつたまっているという話を聞かされたことがあったからだ。だったら自分もあり得る。運動不足なので腹周りの肉は落とせない。休日は間食をよくとる。彼は液晶画面の前で、世界中の誰からも引き離されたような孤独を感じた。
 母親がいつものように、欠伸をした後に二階の部屋から降りて来た。起きるときにする欠伸を欠伸と呼んでよいのかよく分からないが、彼の母親は、布団から起きるとき軽く伸びをして、そのときに必然的に伴う声がその欠伸なのだった。彼は母親がまだ階段の上の方にいるときに、待ち切れずに切りだした。
「俺胆石かもしれない。」
だが母親には彼の深刻さが全く伝わらなかった。
「え、そんなに痛いの?」
「結構痛いよ。ネットで調べたけど、症状が全く胆石とおんなじなんだ。そう言えば2・3日前頭痛もしたし。あれは発熱だったかもしれない。」
「胆石っていうと、知り合いの80歳くらいのおじいちゃんが痛くてたまらなくなって救急車で運ばれたってのを聞いたね。あれ手術って言ってもちょっと切るくらいなんだってね。」
「とにかく今日は会社を休んで医者に行く。」
そこで父親も降りて来た。父親は、またいつもの騒ぎか、といった表情でやってきた。
「なんだ?」
「なんか壮太が胆石だって騒いでるんだけど。」
だが父親は胆石のことをろくに知らなかった。それで、いつものように「そんなの思い過ごしだ」とか「三日経ちゃ治る」とかいうことはできず、彼の言葉を半分信じる気持ちになった。壮太は上司にメールを送った。
 彼は、いつもの青い軽自動車で、病院へと向かった。周りの風景が、切実な色合いで迫ってきた。民家も果樹園もビルも店舗も歩道も電信柱もバス停も、何もかも。ハンドルを切る手にも若干力がこもったりもした。胆石は胆嚢癌の兆候にもなりうるらしい。死の不安が彼の感情を大きくえぐっていた。えぐられた後の力ない感情から、ふと恋を思い出した。最後につき合っていた女性を思い出し、彼女に手紙を書こうかと思った。「僕は死にますが、やっぱりあなたのことが好きでした。」疼くような感傷が彼の心を満たした。結局人間なんて恋愛で生き恋愛で死ぬんだな、と彼は弱弱しく冷笑した。
 総合病院のある通りへと左折し、街路樹の無邪気な緑に心が洗われた。とにかく病院には何かがある。救いかもしれないし絶望かもしれないがとにかく何かがある。いっそのこと自分が死ぬと分かることも一つの救いのような気がしてきた。とにかく結論が欲しかった。結論のない浮動的な過程が彼には苦痛だった。人生の流動性を楽しんでいたころも確かにあった。この先自分の人生がどうなるか分からない、その人生の過程の途上であらゆる可能性を享受しているのが楽しいときもあった。だが、その可能性の一つに死が強力な候補として現れてくると、とたんに人生の流動性は苦痛となった。
 坂を下って、また坂を登る。すると右手に総合病院の建物がとても鮮明に見えてくる。ここまで建物が鮮明だったことはない。右折して駐車場に車を停める。駐車場は中途半端に混んでいた。車から降りて病院の建物へ向かう。自動ドアの入り口の手前には、アーチ状の屋根のある玄関がけっこう広く作られていて、そこへは三段くらいのステップを登る必要がある。受付の広間は一階だけになっていて、その奥に、横に長く、5階建てくらいの建物が聳え立つ。その後ろがどういう構造になっているかはここからは分からない。建物の最上部にはドーム型の造作がいくつかあり、それが何らかの機能を果たしているのか、あるいは単なるデザインであるのかは分からない。
 彼は受付を済ませた。症状を訊かれる。住所・名前・電話番号を書き、行きたい科に丸をつける。カルテの作成が終わるまで待たされる。その時間、彼は、受付や会計で事務をやっている中年の女性たちの所作をいちいち観察していた。幾分滑稽な顔立ちが、化粧によってより滑稽さを際立たせている女性が、比較的若い事務員に指示をしている。彼が欲望を感じるような女性は特にいなかったが、彼の関知しないシステムが、女性たちによって機敏に運営されていて、それがなんとなく美しかった。
 彼は名前を呼ばれ、ビニールの書類入れを渡され、消化器内科へと向かった。採尿され、身長と体重を計られ、血圧を計られる。そして、廊下状の待合室へと呼ばれ、何人かののちに診察室に呼ばれる。医師は40歳くらいで、頭が禿げあがっているのを、極めて短髪にすることでうまくごまかしていた。壮太は、こういう感じもありか、自分もこういう髪形にしようか、と思った。
「どうしたの?」
医者はやけに力のこもった馴れ馴れしい口調で話しかけて来た。人との接し方について、もはや彼には定型があり、それはもはや適切なもので揺るがないようだった。多分医者は患者との接し方で悩むのをあるときやめたのだ、ある接し方に固定することで諦めたのだ、と壮太は思った。
「この辺が痛いんです。」
彼はシャツをまくりあげ、痛いところを指さしながら言った。
「いつから?」
「今日の朝から。」
「ちょっと横になってもらっていい?」
彼は診察室にあるベッドに横になった。すると、医者が、「ここが痛いの?」と言いながら、腹のあたりをあちこち指で強く押してくる。彼はくすぐったかったが堪えて、医者が痛いところを押したとき、「そこです。」と言った。
「ここが痛いの? ずっと痛かったの?」
「いや、痛くなったり痛くならなかったりです。気づいたら痛いという感じです。」
「ふうん。ちょっとエコーやってみようか。」
作品名:掌の小説 作家名:Beamte