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掌の小説

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妄想



 大学1年の秋ごろ、友人から電話があった。この友人とは物理学研究会というサークルで知り合ったのだが、そのサークル自体が、たまに勉強会を開く程度であまり活発ではなく、メンバー数も少なかった。それで私はそのサークルに自然と行かなくなり、彼との音信も途絶えていたのだった。
「あの、斉藤だけど。久しぶり。ちょっと相談があるんだ。」
彼の声は湿って重かった。そして緊張の余韻がまとわりついていた。電話をかけるかどうかで散々迷ったのだろう。それでも勇気を出して電話をかけたのだろう。
「ああ、どうぞ。」
私はマンションの近所のファミレスで早い夕食を取っていた。口の中のハンバーグをなるべく早く噛んで呑み込もうとした。目の前をウェイターが皿を持って通り過ぎる。隣のテーブルのカップルの笑い声が聞こえる。
「最近なんていうか、人間不信なんだ。周りの人が悪意を持っているように思えてならない。大学に行っても、周りの人が自分の悪口を言ってるみたいで。それに笑い声が自分に対する嘲笑に思えてならないんだ。」
彼とはそんなに深い付き合いでもなかった。だが彼からすれば私しか頼れる人間がいなかったのだろう。彼の人間不信の闇によっても覆えなかった最後の光、それが私だったのかもしれない。それに私はよく人から相談されることがあった。確かにその頃の私は、温和で実直で口が堅く信頼のおける人間だったのかもしれない。
「それは俺にも経験があるよ。そこまでひどくはないけど。関係妄想ってやつ。少し医者に相談したことがある。電話ではなんだから、明日ちょっと会わない? そこで話そうよ。」
窓の外を間断なく自動車が流れて行く。無音だがひたむきに。新しく客が入ってきて、ウェイトレスが席へと案内する。
「わかった。」
彼は普通の声色に戻っていた。何かがほどけたのだろう。
「明日一限とってないよね? その時間に正門前で会おう。」
先ほど注文を持っていったウェイターが無表情に厨房へと帰っていく。
「うん。」
彼はわずかな嬉しさを声に含ませていた。
 次の日、私が約束の五分前に正門に行くと、既に彼は待っていた。なぜか眼鏡をかけていなかった。彼は背丈が中くらいだったが、線が細く、女性的な柔らかい体型をしていた。彼は整った鼻に澄んだ眼、少し厚めの唇をした美少年で、私は改めて感嘆しながら彼の顔を眺めた。
「近くに公園があるからそこで話そう。」
私が声をかけると、彼は私に気付き、落ち着いた様子で私についてきた。彼は異様なほど落ち着いて見えた。
 正門から右に逸れ、線路沿いの道路を下っていきながら、私は彼に尋ねた。
「眼鏡はどうしたの?」
「見えるとね、まずいんだ。」
「まずいって?」
「いや、他人の態度とか話してる様子とか、そういうのが見えると、自分を威圧してるように感じるんだ。なんていうかな、とにかく人が怖い。見えなければ怖くない。」
「ああ、そう。」
向かい側から五人くらいの運動服を着た学生の群れがやってくる。前に三人後ろに二人と分かれていたが、時折前の三人は振り返って後ろの二人と一緒に話しこんだりした。お互いに顔を向け合ったり、笑い合ったり、体を押し合ったりしている。ふと彼を見ると、彼は何かに堪えているかのようなきつい表情をしている。
「どうしたの?」
「いや、集団が怖い。」
そう言うと彼は足早になった。早くこの光景から逃れたいらしかった。私は慌ててついていった。
 線路の下をくぐり、公衆トイレの前を右に曲がると、左手の商店の前で、学生たちが三人ぐらいで大きな笑い声をあげていた。
「ああいうのが苦手なんだ。」
彼は言った。
「自分が笑われてるようで。」
「それが辛いんでしょ。」
「うん。」
私はそのときほど人の心がわからないものだと思ったことはない。普段雑談をしている分には別に相手の心なんて分からなくてもいい。だが、相手の内心を打ち明けられたとき、私はいつも他人との齟齬を感じる。そこで他人の心理の過程を追跡する。すると少しわかったようになる。だが、解った分だけ今度は相手との距離を感じる。私の高校時代の関係妄想は、彼ほどまでに先鋭化していなかったし、彼ほどまで感じやすくもなかった。ただ、私は綽名で馬鹿にされたことがあって、その綽名に近い声や文字列に多少反応しやすくなっただけだった。私は彼の心理を追跡しようとするが、藪や霧や林や山に阻まれ全く見通しが立たないのだった。
 託児所の脇の小道から、公園の裏口へと入り、落葉樹に囲まれた狭い木材の歩道を歩き、木製のベンチに座った。右手の芝生の大きな広がりに、子どもがボールで遊んでいるのが小さく見える。2歳くらいだろうか。意味もなくボールを転がしている。親が近くのベンチで見守っている。
「俺ってそんなにダサいかな。」
彼が切り出した。
「え? そんなことないよ。普通だよ。」
「頼むから本当のことを言って。」
「いや、ほんとだよ。おしゃれではないけどダサいわけでもない。普通だよ。」
「なんか俺のことをダサいっていうやつらが居るんだ。」
「それはたぶん嫌がらせだと思うよ。斉藤君の劣等感に付け込んでるんだよ。」
私は憤りを感じた。彼は全く純真無邪気な奴だった。その純真さに付け込むやつらが許せなかった。
「確か君、成績が良かったよね? 夏学期の単位全部Aだったでしょ。それで嫉妬されてるんじゃないかな。」
「いや、たぶん俺ダサいんだよ。自分でも分かるもん。」
「それこそやつらの思うつぼだよ。そいつらは君のそういう純粋さに付け込んでるんだ。」
そう言いつつも、私は自分の言葉が彼に拒絶されているのを感じた。彼の確信は私の正論によっても動かされないほど強固だった。私は再び憤りを感じた。
「俺どうしたらいいんだろ。こんなことは初めてなんだ。外もろくに歩けない。今日は君がいたから歩けたものの、普段は外に出るのも辛いんだ。」
「君はダサくないし、単に変な奴らの嫌がらせに遭っているだけだ。君に必要なのは強さだ。他人の悪意を跳ね返す強さだ。もっと自信を持っていいんだ。君には大学に通う正当な権利がある。せっかくの才能を、そんなくだらない奴らのために台無しにしてしまうのはもったいないよ。」
彼は返事をしなかった。ただ思い詰めたような眼で、目の前を流れている水路を見つめていた。
 別の友人から、斉藤が入院したことを知らされた。私は見舞いに行かなければと思った。精神病院の入院棟で彼と会った。彼はハイデガーの『存在と時間』を読んでいた。
「久しぶり。」
私が声をかけると、彼は驚いたようだった。
「どうしてわかったの?」
彼の声には非難が込められていた。私はとまどった。そしてすぐに、これはおかしいと気づいた。
「いや、梅田君から聞いてさ。」
「ああ、梅田ね。」
彼が梅田のことを呼び捨てにするのを私は初めて聞いた。彼の声には皮肉が込められていた。何の皮肉だか私にはわからなかった。
「君も俺のことを馬鹿にしてるんだろ?」
彼は冷笑を込めてそう言った。私は傷付いた。裏切られた気分だった。私の友情、私の彼を救ってやりたい気持ち、それが何でこんなに届かないんだろう。
「悪いが帰ってくれないか。」
作品名:掌の小説 作家名:Beamte