掌の小説
祖母
「食わね」
そういうと祖母は箸を投げ出した。テーブルと箸のぶつかるカチャという音が、台所の空気をわずかに硬くした。この箸は祖母が数十年間使っているもので、暗めの赤で、指に心地よい凹凸が彫刻刀で彫られたかのように規則正しく付けられていた。私はこの箸の塗装が、剥げたり亀裂を生んだりしないことが不思議でならなかった。祖母の今の錯乱にもかかわらず、この箸はかつての健常だった祖母の形見として祖母の錯乱を一身に受け止めているかのようだった。
「だめだ、食わねえと死んじまうぞ」
父がいつものように、怒鳴るように言った。父の言葉は、法律よりも、強盗よりも、もっと強い強制力を内に込めていた。この強制力は、父の祖母への単純な愛情、そしてそれに基づくとてつもない粘着力の配慮から生まれるもので、その由来の単純さゆえここまでの強さを手に入れているのだった。
祖母は花柄の前掛けをしながら椅子に腰かけている。秋だが、下着を何枚も重ね、その上にシャツを着て、さらにセーターを着るという重装備だ。祖母はひどく痩せていた。母は施設から報告される祖母の体重を、毎回家族に知らせていた。
「ばあちゃん30キロしかないんだよ」
母は深刻なときの女性に特有の重くて湿った口調で、それに続く感情の余韻を残しながらそう報告した。
祖母は悲しみが極端化し永続化したような表情で、うつむきながら、再び箸を取り上げ、椀をとって味噌汁をいじったが、今度は黙ってまた箸を投げた。
「食べなさいって」
父がまた怒鳴る。父にはもはやある種の使命感があるかのようだった。父と祖母の共同体は、こんなにも対立しながらも根本では強く結びついていた。祖母は何か言葉にならない声を出しながら、再び箸を取り、味噌汁を食べ始める。カブとカブの葉と豆腐の味噌汁だったが、豆腐は残す。そこで今度は母が、豆腐を食べるように言うが、結局食べない。
祖母は少しずつ錯乱していった。ある日を境に急に狂ったというわけではない。自律神経失調症から神経症、そこからうつ病、アルツハイマー病と、段階的に診断は変わっていったが、根にあるものはすべて同じで、それが勢いのよい草のように順調に伸びて行って、今になって永遠の暗黒の実を生らせている感じである。家の奥にある寝室では、祖母がベッドに横になりながら、いろんなことを叫んでいた。
「シクラメンって言ったでしょ!」
祖母には被害妄想があり、家族や知人の皆に馬鹿にされていると思っていたので、それに対する怒りと悲しみが強く、絶望的に自分を防御しなければいけなかった。シクラメンという花の名を自分はちゃんと言えるんだぞ、ということを主張しなければならなかった。
「シクラメンシクラメンシクラメン・・・」
このように同じ言葉をずっと言い続けることもあった。かと思うと、
「喜一やんは俺を馬鹿にしてんだ」
などと被害妄想を直接口に出すこともあった。
私が高校生のとき、祖母の部屋の隣の部屋で、パソコンでゲームをやっていた。祖母にはその音楽が耳ざわりで自分を脅かすものであったらしく、祖母は思い詰めた表情でやってきていきなり私の頭をたたいた。私は驚いて言葉も出なかったが、祖母は満足して帰っていった。
デイサービスで通っている施設で、祖母は脳内出血で意識不明となった。病院に運ばれたが、もはや意識は戻らないだろうとのことだった。私は一度だけ見舞いに行った。数人が入っている病室で、ひとりひとりカーテンで仕切られていたが、祖母は文字通り「変わり果てた」姿でそこにいた。顔は変な具合にゆがんでいて、私はぞっとした。とても人の顔とは思わない畸形のように口や鼻が歪んでいた。そして、意識がないにもかかわらず、手をひじを支点に上げたり下げたりしているのだ。祖母はあらゆる地獄を経験したのだな、と私は思った。今も地獄で苦しんでいるのではないか。だからこんな形相であがいているのではないか。私は恐怖と陰惨な感覚で、現世の地獄の一脇役として、あらゆる思考が停止するのを感じた。
祖母はそのまま死んだ。葬式があった。外では金木犀が咲いていた。私は、金木犀の花が咲くたびに祖母の苦しみを思い出そうと誓った。オレンジの華やかさも、香りの誘惑も、すべてあの地獄と暗い接点を持っていた。祖母は決して理解されることがなかった。いつも怒りと悲しみで泣きそうな顔をしながら、精一杯叫んでいたのだ。私は祖母を理解してあげるには幼すぎた。そのことが今悔しい。