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掌の小説

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「海に行かない?」
 雄治はだしぬけにそう言った。奴の中ではもう海に行くことは決定済みで、ガソリンも入れてあり、そして俺が行くのも決定済みなんだろう。雄治の計画の立て方はいつもそうだった。大体思いつきなのだが、その思い付きをどんどん一人で膨らませて行き、しかもその膨らんだ思い付きの中には他人の承諾も当たり前のように巻き込まれているのだった。俺が断ったら雄治はどんな顔をするだろう。そもそも断られたことなんてあるのだろうか。そして俺はいつものように承諾する。雄治は親友だった。親友の誘いに何も戸惑う必要はない。俺の気持は腹筋運動をすることから海へ行くことになめらかに展開していき、そのなめらかさは、俺の雄治に対する親愛、そして、しょうがないやつだなあ、という微笑のこもった諦めに由来していた。
 雄治はアパートの玄関で、ドアを開けっ放しにしながら俺を誘ったが、特にアパートに上がってくる気配はなかった。もともとエアコンはつけていず、俺は部屋の中でもダウンコートを着ていたのだが、そんな寒い部屋でもドアが開けられるともっと寒い風が入ってくる。俺は苦い感情で歯を食いしばる。雄治はもう気忙しくなっていて、俺が早く準備をすることを待っているかのようだった。
「ちょっと待ってて。すぐ準備するから。」
 俺はまず、コーヒーを飲もうと思って沸かしていたガスコンロの火を止め、外出用の緑色でフードがついた薄手のダウンコートに着替え、雄治にあげるつもりで、ショルダーバッグに、間違えて二枚買ってしまったCDの片方を入れて、浴室の洗面台に行ってワックスで髪を整え、「お待たせ」と言って玄関へと顔をのぞかせた。ところが雄治はもういない。既にアパートの前に停めてある車のところへ行ってしまったのだ。雄治の体の中には、人よりも多くばねが入っている、俺はそう思っている。なんでも瞬発力が違うし、行動の速さが違う。俺は、最近買った、薄手で茶色い底に黒い側面がついていて、その側面にいくつもの白い筋が入っているお気に入りの靴を履こうか、それとも、高校のころに思い切って一万円をはたいて買ったが、古くなって色あせてきて底もすり減ってきたので現役を退いたが雑用にはよく使う厚手の青い靴を履こうか、迷ったが、砂浜で濡れることを考えると、雑用の靴の方がいい気がしてそっちを履いた。
 アパートから出ると、アパートへと向かう小道の入り口、つまり普通の道路のアスファルトの上に立って、雄治は俺を見ていた。俺は右手を挙げて合図して、すぐさま雄治から同じく合図が返されたが、靴をよく履くために右足を後ろに挙げかかとに指を入れて、たごまっている靴の皮を直した。この小道の向かい側には別のアパートがあるが、こちらのアパートは俺の安アパートよりもずっと新しく、デザインから配色からすべて現代的な冷たさと鋭さを持っていた。俺の安アパートはその点昔ながらの温かさと滑稽さがある。俺が雄治の車へと向かうと、雄治はすでに車に乗りエンジンを噴かせている。俺は小走りになり、車に乗り込む。
 俺たちは地方の私大に通っていた。その大学のある都市から太平洋までは、車で1時間かかる。まずは住宅街の狭い小道を、何度も右折左折を繰り返し、県道に出る。緩やかに蛇行しながら、それでもおおまかに東に向かうこの県道は、二本の国道とほぼ垂直に交わりながら海へ向かう。海の近くになると、この県道は北へと方向を変えてしまうので、そこからはより狭い県道へと入る必要がある。俺は助手席に座り、動いていく風景を見ながら、雄治といろんな話をした。
「最近映画観てる?」
「あんまり観ないな。」
「なんかさ、最近映画の観方が変わった気がするんだよ。」
「どんなふうに?」
「昔はさ、みんなが泣くポイントで泣いたり、ラストで感動したりとか、なんていうか、凡庸な観方だったんだよね。」
「そんなもんじゃない?」
「でもさ、最近、細かいところにいちいち感動するんだよ。」
「どういうこと?」
「なんかね、画面が絵みたいですげえ、とか、この表情適確過ぎる、とか、いろいろ。」
「オタク街道まっしぐらだね。」
「うーん、でも俺はオタクにはなれないな。なんかね、冷めちゃってるから。一つのことに熱中できない。」
 こんなたわいもない会話をしているうちに、砂浜の手前にある駐車場へと車は入っていった。雄治は器用に車を操り、白線と白線との真ん中に車を停めた。雄治は基本的に物事にこだわらないタイプだ。余計なことを考えている暇があったらジムに行って筋トレをするタイプだ。人付き合いも深入りしない。彼の人との接し方はまことに硬質でさらさらしていた。すべての結論は既に彼の中にあるかのようだった。彼の言葉はその結論から正しく導かれる正解であって、それ以上彼は答えを望まないのだった。だが、物の扱い方は違う。彼は、例えば食事をする場合、食器の置き方一つ一つに気を配るし、講義で配られる資料もきちんと整理してファイルしてある。だから、車の扱いも丁寧だ。人に深入りせず物に深入りする彼の性癖は、何か、物と自分との間に似たようなものを感じ取っているかのようだった。物を丁寧に扱うことで、彼は自分を丁寧に扱っていたのかもしれない。
 車から降りると、潮風にあてられた。強く冷たい風で、頬が布で拭われていくかのようだった。風の音が耳の中で鳴る。駐車場から階段を下りるとそこは砂浜だった。機械で均されたかのよう平らですべすべした砂の上を、波が寄せては返していた。漂流物や網などが散らばっている。俺は吸い殻を拾い上げた。
「これをお土産にしようか。」
「はは、お前らしいな。」
 俺と雄治はしばらく風に打たれながら海をどこまでも遠くまで眺めていた。体の奥の方から熱いものが全身に沁み渡っていくように感じた。それはこの海の大きさからとても鋭い印象を受けたからだ。まず俺の視覚が海で満たされる。それと同時に、俺の脳髄は透明に冴えてくる。するとこの熱い滾りがやってくる。
「海はいいね。」
「ああ、一年に一度は来るべきだな。」
 俺は雄治が俺と同じものを感じていることに、安心したと同時に少し悔しかった。俺は海の感覚を独り占めしたかった。同時に、孤独に感覚することがさびしかった。
 砂浜の端っこに見晴らし台が建っていた。その狭い金属のらせん階段を登ると、海が高い位置から見渡せた。見晴らし台の柵に手をついて、海の余韻に浸り、ふと後ろを見ると、金属の柱に沢山の相合傘が刻まれてあった。俺は胸の中にそいつらが飛び込んでくるのを痛く感じた。近頃恋人と別れたばかりだったからだ。俺はまだ整理がついていない恋人への気持が急速にわだかまってくるのを感じた。俺は再び海を見ると雄治に言った。
「恋は叶わないものだと思ってるよ。」
「恋は自然に進行するものだよ。」
「そこに沢山相合傘があるんだけど、お前ら何でそんなにうまくいくんだって思うね。」
「うまくいくときはうまくいく。」
「やっぱり、恋は叶わない。」
作品名:掌の小説 作家名:Beamte