掌の小説
履歴
彼女は軽いうつ病にかかっていた。そして軽い睡眠障害もあったから、二カ月に一回、近くの病院に行って、弱い抗うつ薬と睡眠薬を処方してもらっていた。彼女は大学の事務をやっていたが、病気は仕事に差し支えなく、ただ、休みの日になると軽い憂鬱に襲われるくらいだった。もともとは対人恐怖症だった。大学時代、軽いいじめにあって、そのとき「ブス」と何人の人からも言われたため、自分の顔を人の目にさらすことが耐えられなくなり、一時期は家から外に出ることもほとんどできなかった。
今日は彼女の通院日である。いつものように診察を終えると、彼女はクリアケースを持たされて待合室のいすに座っていた。ところが、そのクリアケースの中がいつもより厚く、何か書類が入っていることに気付いた。彼女は、見てはいけないのではないかと思いつつ、好奇心には勝てなくてその書類を読んでみた。それは、彼女の病気について、病院を変えるごとに、前の病院から次の病院へと渡される、彼女の病歴を書いたものだった。
一通目。彼女が通っていた大学の医務室から、彼女の実家の近くの県立病院へと宛てられた書類。大体次のような内容だった。「同級生に悪口を言われて対人恐怖症(醜形恐怖)になる。その後、不安や倦怠を感じるようになり、うつ病と診断。人柄は温厚。家族関係に問題はなし。」
二通目。県立病院から、今の勤め先の近くにある病院へと宛てられた書類。「病状に変化はなし。仕事も順調にこなしているようで、恋人もできた様子。」
彼女は血の気が引く思いがした。そして体が震えて来た。すると、受付から番号が呼ばれ、彼女は何事もなかったかのようにそのクリアケースを受け付けに渡し、下の階に下りて会計を済ませて外に出た。
「いったい何が分かるっていうのよ。」
彼女の眼から涙がにじみ出て来た。
「私がどれだけ苦しい思いをしてきたか。どんな地獄をくぐってきたか。医者にいったい何が分かるっていうの。」
彼女は乾いた笑い声をあげた。周りに人はいなかった。冷たい風が空気をかき乱した。
「私は結局誰にも理解されなかったんだ。医者なんて機械みたいなもんよ。私の苦しみなんて分からずに、ただ無機的な文章で表したつもりになっている。あんな履歴は私のことを何も語っていない。あんな履歴でやり取りされるなんてぞっとする。信じられない。」
病院の門を出て、マンションに向かう道へと辿りながら、彼女には通り過ぎる車や人たちが、すべて何の意味もないように感じられた。対人恐怖の苦しみは、彼女の心も体もすべて粉々に砕くような激しいものだった。自分の顔をどうしたらよいのか。自分はそんなに醜いのか。自分は相手に不快な思いをさせているのか。どうしたらよいのかわからなくて、ちぎれんばかりの苦痛を感じたものだった。そして、そこからうつ病へと診断された。うつ病と診断されたとき、彼女は一種の死刑宣告を受けたのかのような衝撃を受けた。私もこれで病人なんだわ、という、認めがたかったが、何もかも説明してくれるような承認。そして、うつがひどいときには、本当に自分が生きていることすら嫌だった。何をするのも嫌で自分には何の価値もない。「絶望」という言葉の真の意味を知ったのも、うつ病になってからだった。
「私の病気は私のすべてみたいなもの。それをあんな事務的な文章で表すなんて信じられない。私の病気はもっとひどい苦しみや痛みに彩られていた。あの文章にはそれが全く反映されていない。いったいなんなのよ。誰もかれも信じられない。」
彼女はマンションの自分の部屋のドアを開けて、ベッドに腰を下ろした。荷物を机の脇に置いた。少し心が静まった気がした。今日は土曜日だ。恋人の携帯に電話をした。
「はいよ。なんかあった?」
恋人の明るい声が快い。恋人もまたうつ病患者で、彼女と同じく軽症で普通に働いている。
「あのね、・・・いや、もういいんだ。」
そうだ、私のことを理解してくれる人がここにいたではないか。
「ごめん、ちょっと泣かせて・・・」
「どうしたの? 何でも言ってよ。」
「いや、ありがとう。ただ工藤君の声が聞けただけでよかったの。じゃ。」
「ああそう。またね。」
恋人は少しけげんそうだったが、彼女はむしろすごく明るくなった。彼女はCDプレイヤーにベートーヴェンをセットして聴いた。ベートーヴェンは彼女の気持ちをどこまでも掘り下げて行き、彼女は何もかも許すことができた。