秘密は秘密のままに
長い息で紫煙を吐いて、呉羽が言った。
「今抱えている仕事のキリが付いたら、ここを辞めることにしたよ」
あまりに突然で、あまりに何気なく。ぼんやりと彼が吐く煙の行方を見ていた上川は、重要なこととも思わずに「え?」と普通に聞き返した。
「独立して、事務所を持つんだ」
「独立?!」
今度ははっきりと聞き取って、声は大きくなった。闇に慣れた目が呉羽の表情を捉える。上川の驚く反応に、彼の口元がほころんだ。
「独立って、おまえ、ガーデン・シティの設計総指揮じゃないか?」
二人が担当しているのは、四企業共同での駅前再開発整備事業である。ランドマークとなる高層ビル、コンサート・ホール、商業施設、高級ホテル等の複合施設を配して人工都市と為す、巨大プロジェクトだ。呉羽はランドマーク・ビルの設計を担当し、他の主だった建築物にも少なからず関わっている中心的存在だった。プロジェクトが動き出して四年目に入ったが、まだ全体の半分近くが残っている。
「俺の担当は本来、タワービルだけなんだよ。後はお手伝い」
呉羽の実力は学生の時から周知だった。むしろ、今まで独立しなかった事の方が不思議なくらいなのだ。今回のプロジェクトで更に『顔』は売れただろうし、独立するにはいいタイミングかも知れない。その口ぶりから、設計部、もしくは上層部ではすでに決定事項であることが察せられた。
「退職までバタバタするだろうし、まともに話さないまま、また別れて行きたくなかった。だからケリをつけておこうと思って、今日、誘ったんだ」
独立と言う言葉をまだ消化しきれずに、半ば呆けている上川に呉羽が続けた。
「ケリ…?」
上川はうつむき加減になっていた顔を上げ、彼を見た。
「ケリと言うより、確認かな。あの時の気持ちを」
『あの時』とは、大学三年の春休みのあの夜だ。上川にはすぐにわかった。誰も知らない二人だけの秘密――昨日のことのように思い出される記憶。
「おまえに触れた自分が信じられなくて、しばらく混乱した。確認するのが恐かったのかもな。上川のことを、ずっとそんな対象で見ていたのかって。同性愛を否定する気はないけど、いざ自分がそうかも知れないと思ったら恐かったんだ」