秘密は秘密のままに
上川の髪に差し入れられた呉羽の手の指先は冷たかった。緊張しているのだ、あの呉羽が。自信家で、どんな時も動じない彼が。
今度は唇が重ねられただけのキスではなく、呉羽は上川の下唇を軽く噛んで、開くことを促した。少し上川の唇が開くと、待ちかねたように彼の舌先が歯列を割る。勢いで仰け反った上川は、そのまま畳の上に倒れた。頭を打たなかったのは、呉羽の手があったからだ。
冷たかった呉羽の指先は熱を取り戻し、抱き込むように肩を抱いた。もう片方の手が、上川の髪を梳く。その間も、キスは止まらなかった。
上川は目眩を感じていた。それは甘い火照りとなって身体中に広がり、全てを委ねてしまいたい誘惑を呼ぶ。
呉羽の唇が離れ、上川の耳朶を軽く啄ばみ、首筋に落ちたその時、どやどやと、夜中に響く足音が耳に入った。
部屋の前の廊下を行く数人。酔って呂律が回っていない声が、「夜中だから、静かにしろよ」と嗜める。
呉羽は身を起こして、そちらを振り返っていた。上川もまた、彼の肩越しに見る。急速に何もかもが冷めていくのを感じながら。
呉羽は上川を引き起こした。うるさく行き過ぎた一行はどこかの部屋に入ったらしく、再び静けさが戻ったが、甘い火照りは戻らなかった。
二人とも黙ったまま、壁に背をもたせて並んで座った。唇は二度と重なることは無く、あの数分が夢だったのではないかと思うほど遠く感じる。それでも触れ合う肩は離れられず、知らず知らずにどちらからともなく手を握った。
そのまま朝を迎えるまで。
「そろそろ帰るか?」
呉羽は上川に確認するが、すでに手には伝票が握られ、腰が浮いていた。上川は慌てて身支度をした。
ここに入った時よりも、気温が下がっている。外に出た二人は、コートの前を合わせると歩き始めた。
結局、あの夜の後、二人には何も起こらなかった。すぐに大学が始まり、更に忙しい日々が待っていて、すれ違う時間が増えていった。呉羽は大学の研究室に泊り込むようになり、そして決まりかけていた就職内定を辞退する。卒業制作は規模を拡大、論文も大幅に書き換えにかかった。大学院を受けることにしたからだった。
上川は六月に内定が出て、夏季休暇の半分を帰省して過ごした。大学に戻ってからは本格的に卒論にとりかかり、泊り込みこそしなかったが研究室と図書館に詰めることが多くなった。