秘密は秘密のままに
「昼間、歩き回ってるんだから、夜ぐらいゆっくりしたいさ。それに誰かさんの飯の仕度もしなきゃなんないし」
「後半は言い訳だな。単に年食っただけだろ?」
「失礼な。おまえより半年以上、年下だぞ」
断りきれない誘いもあった。OBがお膳立てしたもので、呉羽が出られない分、上川には必ず来いとのお達しだった。内定しかかっている呉羽と違って、上川はまだまだ就職の口利きを頼むことがあるかも知れない。無碍に断ることも出来ず、ある日、久しぶりにコンパに出かけた。
アパートに帰ったのは午前一時。呉羽の部屋にはまだ灯りがついていたので、いつもの癖でそちらに入る。
「ただいま。呉羽、飯、食った?」
「食った。味噌汁、まだ残ってるぞ。酒、抜くのに温めてやろうか?」
「うん。そんなに飲んでないけど、久しぶりだからさすがにクルな」
コタツに足を突っ込むと、途端に睡魔が襲ってきた。次の日に会社説明会の予定が入っていたので、飲んだのはビールをコップに二、三杯、チューハイ一杯と言うところ。全盛期に比べたら飲んでいないにも等しいくらいだ。場の雰囲気にあてられ、疲れたせいもあるだろう。知らず知らずに上川の身体は、前に傾いでいた。
「上川、上川、ほら、眼鏡外せよ。型つくぞ。味噌汁はどーすんだ?」
上川は頭を上げた。目の前に呉羽が見える。「もういい」と辛うじて答えると、彼の手が眼鏡を外そうとした。
「ああ、ごめん、自分でするよ」
上川は眼鏡に指をかけた――と、手首をつかまれ指は離れた。弾みで眼鏡は外れ、軽い音を立ててテーブルの上を滑った。
奇妙に間が空いて、上川は顔を上げる。呉羽が見つめていた。裸眼でぼんやりとした視界の中、彼だけがはっきりしている。
「呉…」
上川の声は途中で途切れた。呉羽の唇が塞いだのだ。
ぎこちなく重ねられただけの唇。場数を踏んでいるはずの彼には似つかわしくないキス。上川は何がどうなっているのか、すぐには理解出来なかった。ただ不思議と、拒む気持ちは湧かなかった。
重なっていただけの唇は、一瞬の温もりを残して離れて行く。バツの悪そうな呉羽の表情を伴って。
酔ってはいない。眠気も覚めた。離れていく彼の唇を追ったのは、だから上川のはっきりした意思。残った温もりが消えないうちに、再び、二人の唇は重なった。