秘密は秘密のままに
呉羽の手が上川の左手に伸び、手首を掴んだ。時間を見る彼の癖。時計の文字盤が見えるところまで引き寄せる。手首が出たおかげでコートの袖口から外気が入ったが、上川は冷たいと感じない。呉羽に触れられているところが、途端に熱を帯びる。
呉羽は引き寄せた上川の手をしばらく見つめた。
上川もまた、自分の手を掴む彼のそれを見つめた。
二人とも、触れ合う二つの手を見つめた。
「誰だ?!」
誰何の声がかかり、同時に小さいながらも鋭い光が二人を照らす。眩しさに思わず上川は手を翳したが、それより先に大きな影が光を遮った。呉羽が上川の前に立ったのだった。彼の肩越しに、相手が見回りのガードマンだとわかった。
「呉羽さんじゃないですか? こんな時間まで残業ですか?」
ガードマンは呉羽だとわかると懐中電灯を地面に向ける。声音が親しげな調子に変わった。
「飲みに行った帰り。こっちは営業二課の上川課長。一服して、酔い醒まししていたんだ。悪いね、もう帰るから」
「そうですか、気をつけて帰ってくださいよ」
さして怪しむ様子も無く、ガードマンは正面玄関の方に去った。残業で遅くなることが多く、退社時には必ずここで喫煙して帰るから、彼ら守衛係とは自然、顔見知りになっているのだと呉羽は笑った。
「今度こそ帰るか。終電に間に合わなくなる」
そう言った呉羽に上川は頷きで答える。二人はここに寄り道した時同様、並んで歩き始めた。
路線が反対方向なので、改札を入ったところで左右に別れた。何事もなかったかのように呉羽は軽く手を挙げ、乗り込むホームへのエスカレーターを上って行った。
上川はその後ろ姿を見送る。頭が見えなくなるほんの一瞬、呉羽が振り返った。視線が合わなかったので、見ている上川に気づいたかどうかわからなかった。彼の姿が階段の上の方に消えた後、上川は反対側のホームへ上り始めた。
上川の息子がまだ幼いのは、結婚が遅かったからだ。仕事が面白く、また忙しかったせいもある。好きな相手もいなかったし、結婚の必要性も感じなかった。しかし本当のところは、心の奥底にしまい込んだ思い出が邪魔をしたから。学生時代と、あの春の夜。どの場面にも、必ず呉羽の姿があった。