長脇差しの男
「手伝いで魚を買い付けに行く朝早くに道場の前を通ると、いつも掛け声が聞こえるのです。ふと気になり中を見ると、あの方が木刀を振るっておられました。幾日も幾日も、独りで真剣な面持ちで木刀を振っておられたのです。それを毎日覗いてるうちに。」
「惚れたと。」
娘は赤くなりながら俯く。
これは本域の生娘だと男は感じていた。
この手は色恋沙汰では厄介なものである。
「目を掛けられて。」
「愛妾にと言われたか。」
「ほんに嬉しかったのですが。」
「妾では。」
「苦しいのです。」
「うんとも言えずに。」
「嫌とも言えません。」
「諦めて貰おうと、か。」
それであの中途半端な態度である。
娘はまた一度頷いた。
あれでは余計だろう、と内心苦笑いしながら男は思い直していた。
「ですから。」
「それとこれとは。」
娘の声を遮って男は言い切った。
話が別だと伝えていた。
「俺も惚れたんだよ。あいつの刀に。だから斬り合わなきゃしゃあないのさ。」
娘は心底不可解な想いと不安から、最早紙細工のような顔を見せる。
「島崎とやらが生きて帰ってきたら。」
男は変わらぬ飄々とした顔で言葉を続けた。
「駆け落ちでも頼んでみな。」
そう言って男はひらひらと手を振ると、店を後にした。
「さて。」
「やるか。」
草原にて佇む島崎に男が声を掛けると、島崎は刀を抜き去った。
応じて男が刀を抜くと、島崎は草履を脱ぎ捨てる。
速く動くのに草履は不得手である。
男は草鞋であり、露地での多少利はあったが、お互い兎角言うことはなかった。
それを兎角言うならば、この場所は島崎の良く知る地所である。
どちらもそれを問うことはない。
そもそもが相対する者は皆。
生まれた時が違う。
育った場所も違う。
師も。
流派も。
背格好も。
獲物の長さすら。
公平等と程も遠い差を持っている。
そして例え、その何の全てが劣っていようと。
刀を持てば勝つ。
そう自惚れているのであった。
気が付けば、二人の間合いは十尺ほどに詰まっていた。
「連れは置いてきた。邪魔は入らん。」
「そうか。」
言葉にして島崎は無粋なことを口にしたと感じた。
途端。
男の剣先が振れた。
男の体が眼前にあった。
剣先が鼻っ面に迫った。
突き。
島崎は思いっきりに飛び退く。
途端に島崎は苦笑いをしそうになった。
飛び退いて改めて見ればゆうに間がある。
男は正眼に構えて、島崎を睨み付けていた。
嘲りなど無かった。
島崎は口角を上げそうになって、口を引き締めた。
しかし。
そう思いながら、島崎は改めて驚嘆した。
男の構えは、堂に入ってるどころではない、奥に入ってる。
生半には崩れまい。
その構えを前に、島崎は心を決した。
島崎の刀が頭上へと上がっていく。
上段へと体は為っていた。
左足をさらに半歩前に出し、臍下に力を込める。
男が一歩にじり寄った。
島崎が半歩ほど足を擦り寄る。
そこで一瞬止まった。
斬れる間合いまで一歩分。
男が僅かに足を浮かせる。
瞬間、島崎は右足を強かに踏み出した。
上段から右袈裟に剣筋が曲がる。
左首から右脇腹へ。
剣先を滑らすように振り下ろす。
「しぃっ。」
島崎の口から舌打ちのように息が漏れる。
手応えがない。
男は体を半身に、足を左へと。
島崎から見るに剣筋の僅か右へとずれていた。
男は刀を左から島崎の右脇腹へと滑らす。
途端に男は背筋に寒気を感じた。
島崎が強かに踏み込んだ右足を、いきなりに引き戻し体を開いた。
咄嗟に男は間を目算した。
避けきらん、刀は腹へと達する。
しかし、そうではなかった。
島崎は渾身に体を開き、その勢いで、袈裟に下ろした刀を強引に横薙いでくる。
斬られる。
男は瞬くに悟った。
男は島崎を斬る手を僅かに返し、自らの刀を島崎の刀へと向かわせた。
鈍い嫌な音がする。
金属粉がはじけ飛ぶ。
二振りの刀が中程で交差し弾き返った。
その勢いに乗るように、男と島崎は弾き退く。
飛び退いて刀を握り直し、男は手に酷い痺れを感じていた。
刀の腹は痛々しく刃こぼれを起こしている。
島崎は心胆を冷やしていた。
あの型は本来避けきるのである。
相打ちになりかけた。
男の踏み込みが常人よりも遙かに速く深いのである。
男が構え直すのを島崎は妬みの思いで睨み付けた。
二度はないだろう。
そう思い、島崎は構えを正眼へと戻した。
それに対したか、逆に男が上段へと構えた。
島崎は訝しんだ。
男の太刀筋は三度見た。
それで分かる。
男の刀は速く、体捌きは疾く。
上段になど構える必要はなく、むしろ変幻が少ないために、足の邪魔となる。
だからこそ今まで正眼であっただろう。
守りを薄くし打ち込ませる腹か。
島崎は、そう結論づけた。
男が一歩近づいてくる。
打ち込まず出方を見る。
島崎は、そう考え半歩近づいた。
間合いまで二歩の距離である。
途端に男の体が迫った。
男の腕が振り下ろされる。
島崎は驚嘆した。
間合いは未だ足りていない。
剣先が滑る先を推して理解した。
刀か。
男の刀は島崎の剣先を狙っていた。
刀を叩き落とさんとしている。
とっさに島崎は腕を思いっきりに返す。
男の刀へと刀を振り上げる。
今一度草原に鈍い嫌な音が響き渡った。
一本の刀が虚空に舞い上がる。
男の刀であった。
振り上げた島崎はしかし、寒気を感じた。
手応えがなかった。
有るはずの手の痺れがなかった。
刀がぶつかる刹那。
男は既に刀を握ってはいなかった。
島崎が刀を振り上げきった今。
男の手は腰の脇差しを既に握っている。
島崎は、その姿を見るや、背筋に幾万の虫が走るのを感じた。
「かぁっ。」
来る。
来る。
あの居合いが来る。
浮いた足を何とか踏ん張らせる。
足を離す。
遅いかっ。
男の体が開く。
手が跳ねる。
刀が滑り出す。
いや。
しかし。
遠い。
脇差しならば。
届かん。
そこで島崎は自らの愚かさを悟った。
男の刀は長脇差しである。
島崎は腹に突き刺さるものを感じた。
直後に。
火鉢を突っ込まれたように熱くなった。
島崎は飛び退いた足を堪えきれず、草原へと倒れ込んだ。
「くはっは。」
島崎は、笑おうとして笑えないことに気付く。
呼気すらままならない。
腹の筋が斬れてしまっている。
残心を解いたのだろう、男が近寄ってくるのが分かった。
「まっ……げっ。」
そこまで言って島崎はがふがふと気を吐いた。声も出せず、ぱくぱくと口を動かす。
「そうかい。」
島崎の口を読み、男は素っ気いもなく言った。
「かっ……かかっ。」
笑おうとして島崎は激痛に悶えそうになった。
島崎は笑いたかった。
まさか、刀を投げ捨てるとは。
礼節も武士の魂も道も定跡も関係ない。
これが真剣の勝負なのだろう。
楽しかった。
「楽しかったなあ。」
ああ、楽しかった。心底に。
島崎は口を綻ばせる。
「良い笑顔をするんだな。あんた。」
男は笑った。