長脇差しの男
そこでふと島崎は頭に過ぎるものがあった。
その考えに島崎は笑みを浮かべた。それも生来の顔がさらにあくどく醜く見えるような。
浮かんだのは一瞬であった。
「邪魔をするつもりか。」
「そういう心づもりはないが、そうなっているのだろうな。」
「積もりが無いのならどけ。」
「それは腹が減る。」
男が答える調子は、まるでのんきであった。
そんな男の様子に、島崎はくっくっくっと細かく肩を振るわせた。
難癖を付けてウサを晴らすつもりだったが、よもや突き杵に合いの手である。
「どかぬと言うなら仕方あるまい、な。」
笑いながら呟いて、島崎は腰の刀に手を掛ける。
周囲の人間が、手を掛けた感じたときにはもう切っ先が男の鼻先に突きつけられていた。
男の後から、ひっ、という娘の声が聞こえる。
当の男と言えば相も変わらず安穏とした様子で島崎を眺めている。
「これでも、どかぬか。」
「刀は最初から持っておったろう。」
「抜きはしても切らぬと思っているのか。」
「逆だな。」
「む。」
意味が分からず島崎が顔を顰めると、男は頭を振った。
「良くは分からぬが、これでもどかぬのならな。」
「どうなる。」
ふっと、島崎の剣先が震えた。
男の目の前で空気が割れる。
男はそこに吸い込まれるような感触がした。
「お前の体が、そうなる。」
男が握っていた串の鰯が半身消えていた。
男の足下で、何も知らぬ犬が落ちた魚の身を咥える。
男は肩をふるわせて笑いだした。
「何が可笑しい。」
聳やかして激するが男はくっくっくっと肩をゆらす。
「こうなりたいか。」
「邪魔などするつもりはなかったが、こうなるというのなら。」
「む。」
「邪魔をしたくなった。」
男は大きく口角を上げ、刀の柄に手を当てた。
一変として空気が変わった。
喧嘩どころではない。
島崎は気を呑んだ。
島崎は男の手首を漠然と眺める。
刀を抜く瞬間に、手首を切り落とす腹づもりであった。
間だ。
抜かぬか。
島崎の頭にそう過ぎった瞬間、男は左足を下げ半身としていた。
島崎が、あっ、としたときには既に遅かった。
既に男の体に構えが出来ていた。
刀を抜いては居ないが、最早斬れる構えであった。
抜刀術の一型である。
島崎は握りを心持ち広めに変えた。
抜刀術には三つある。
互いに抜かぬ身から、先に抜き斬る。
刀を抜き斬った相手を斬り抜く。
抜かぬ身から避け、捌き、そして斬る。
男は、そのうちから斬るだけのことを選んだ。
単純に、捌き、後に斬るには狭すぎたからだろうと島崎は考えた。
「ちっ。」
島崎の口からは自然と舌打ちが漏れた。
男の、逆だ、と言う言葉を思い出す。
抜こうが斬らぬのではなく、抜かずとも斬れるのだからと言いたかったのだろうと思い至った。
島崎が記憶をたどるに。男の構えは抜刀術において、もっとも防御的な構えであろうと推した。
ただ一つ。
斬らるるば斬る。
殺されれば殺す。
それが攻め手への抑止となる構え。
単純な道理の術である。
しかし、殺されれば等と。
狂人が。
島崎がそう蔑した刹那。男の口角が上がった。
男の右手が消えた。
男の体が跳ねるように開いていく。
黒い線が弾けるように迫ってくる。
「ちいっ。」
とっさに島崎は後ろへと跳ねた。
男の手に刀を合わせようと考えたが、あまりにも体勢悪く感じ、やめた。
腹の一寸先を剣先がなぞる。
島崎は肝を冷やした。
完全に虚を突かれていた。
最初から、相手は斬るつもりであった。
殺されれば殺すなどと、そんなものではなく。
斬られようが斬るつもりだったのだろう。
島崎は、そう心に定めながら飛び退いた足を地に付けた。
男は悠然と小屋の中から出てくる。
間合いの一歩手前で男が無造作に正眼に構える。
島崎は臍の下に力を入れて重心を少し低くした。膝を筋が少し張る程度に屈ませる。
心にあった多少の侮りは消した。
脅かして憂さを晴らす積もりだったことも忘れた。
衆目は誰一人声を上げなかった。
島崎の取り巻きも呆然として立ちつくしていた。
男の足が僅かに近づく。
島崎は僅かに下がる。
島崎の足が右に渡る。
男の体が左に寄る。
島崎の口が呼する。
男の口が吸する。
焦れる。
日中の往来。
ぴっかんてんの日が照らされる。
互いの額に汗が滲む。
音が張りつめているようだった。
気が満ちていた。
どちらともなく。
互いの間が一歩縮まっていた。
男の腕が大きく震えた。
島崎は刀を僅かに引いた。
その刹那、カン高い鳴り物の音が響く。
騒がしい足音と共に、どけいどけいと叫び声が聞こえる。
衆人にも誰かが岡っ引きを呼んだらしきことが分かる。
男と島崎はいつの間にか常の構えに戻っている。
わずかあって、お互いに刀を鞘に収めた。
島崎は、その場から男に二言三言声を掛けると、群衆の輪の中へ足を向けた。
群衆が割れて、その後ろを取り巻きが慌てて追いかける。
岡っ引きは島崎の顔を見ると、事情を察したかのように二言三言話して去っていった。
男は店に戻ると店主に向かう。
「騒がして悪かったな。」
「全くだ。」
「代金は。」
「二尾で二十四文だ。」
「……まからんかな。」
「まからんな。」
「一匹は半分落ちたが。」
「食いきっとったろう。」
「ふむ。」
男は観念をしたか、懐へと手を入れる。
娘がハッと気づいたように手を出した。
一枚一枚数えるように出される銭を受け取りながら娘はおずおずと男に聞く。
「先ほど、最後に島崎の若旦那様は何を言っていたようですが、なにを。」
「ああ、なに。」
そこで男の手が止まった、二十四文の銭が娘の手に乗せられていた。
「東にある草原で続きを待つと。」
それを聞いて、娘の手中の銭がかちゃかちゃと音を立て始めた。
娘の腕がかたかたと震えている。
「行く気なのですか。」
「論無くな。」
「おやめください。」
「何故か。」
「死にに行くようなものです。」
「ふむ。」
「島崎の若旦那は、ああ見えて剣の腕は滅法立つのです。道場でも免状を与えられ、この辺りであの方に敵う人はいません。」
「だろうな。」
「え。」
返して男は鰯を切られたときを思い出した。串を持つ手に重みを感じていなかった。
「でしたら……。」
「だからさ。」
娘は閉口して手をわなわなと震わせる。
「本当はあんた、俺じゃなくて、島崎とやらが心配なのだろう。」
「え?」
虚を突かれたように娘は身を縮ませる。
「あんたは、あの島崎とかいう男に惚れていよう。」
「え、いえ……その。」
「大方、だからこそ、妾というのが嫌なのだろう。」
男の言葉に娘は、さっと顔を赤らめる。
図星と言っているようなものだった。
「変だと思いますか?」
「いや、そう言うのも居るさ。」
「そうですか……。」
娘は憑きものを落とすようにため息をついた。
「あの方は、あれで刀に関しては誠実な方なのです。」
「だろうな。」
太刀筋、振る舞い、生半に出来る物ではなかった。