ボクのプレシャスブルー
2.僕のプレシャスブルー
そして運動会当日、空は抜けるような青空で絶好の運動会日和と言ったところだ。誰もが運動会が中止になったなんて誤解を挿む余地のないくらいの好天。
だが、それなのに開会式が終わっても純輝は姿を現さなかった。刻々と保護者参加の競技の時間が近づく。治人は不安そうに何度も何度も辺りを見回していた。
そして、あと三つばかりでもうその競技になると言う時、私の服のポケットが振動した。私はポケットから携帯を取り出す。
「今、どこだ。もう始まるぞ。」
私は電話の相手―探している当の純輝に憮然とそう言った。
「……ゴメン、オレパス。今朝から腹調子悪くてさ、トイレからマジ出らんねぇんだ。よしりん、やっぱ出てくんねぇ?」
「俺がか?」
純輝はため息交じりの荒い息でそう返す。今頃言ってくるなと怒鳴ってやりたかったが、掠れた痛みを堪えた声で言われて、私はかろうじてそれだけは抑えた。急な体調不良は誰にだってあることだ。
「最初は出るつもりだったんだろ。」
「ムリだ。治人に嫌がられる」
私がそう返すと、純輝は、
「えっ、治は嫌がってねぇよ。とにかくよしりんが……あ……ダメだ。そいじゃ切るから。」
と言うと一方的に電話を切ってしまった。
治人が嫌がっていない? どういうことなんだ。確かにあの時、私の参加を拒絶した治人を純輝は表に連れ出したが、そこで何を話したのだろう。
さくらはと見ると、ビデオを抱えてベストショットで治人と純輝をとらえようと移動をしていて、車椅子に乗っている私には彼女をつかまえて、代わりに出てもらうだけの時間はもうない。
程なく親子競技の召集がかかり、私は車椅子を邪魔にならないところに停めて、杖をつきゆっくりと待機する場所に向かった。同じように児童席からそこにきた治人の顔が既に歪んで涙目になっている。
「純兄は?」
「急に腹が痛くなったんだと。治人、ビリにしかなれないけど、父さんでも良いか」
私の言葉にさらに治人の顔が涙で歪む。ああ、本当に嫌なんだなと思った時、息子の口から思いがけない一言が私の耳に響いた。
「お父さん、ムリしないで。歩けなくなっちゃうよ。ボク、コレ出ない。」
治人の眼から涙が一つ二つとこぼれる。
ああ、純輝が『治は嫌がってねぇ』と言ったのは、こういう意味だったのか。
実のところ私の身体は、十八年経った今でも雨が降り続くと痛みで動きが悪くなる。梅雨直前のこの時期に、私にムリをさせたりしたら歩けなくなってしまうんじゃないか。治人はそんなことを心配していたのだ。
「大丈夫さ。走ったくらいじゃどうもならないさ」
「ホントに?」
「ああ」
私が頷くと、治人は何かを思い出したようにパッと明るい顔になった。
「そうだよね、お父さんはプレシャスブルーなんだから、大丈夫だよね」
「ああ、そうだよ」
私は治人の口から出てきた言葉の意味は解からなかったが、頷きながら相槌を打った。治人の顔に満面の笑みが広がった。
「すいません、座ったら立てないもんですから、このままで良いですか」
「え、ええどうぞ」
私は実行委員のPTAの役員にそう断りを入れて、立ったまま順番を待った。少しずつ前に進んで……私たちの順番になった。他の二人の保護者が勢い込んでダッシュしてそりの紐を掴んで走る中、私はそれでも自分の中ではトップスピードで「走る」そんな私に、治人はそりの紐を掴んで私の手の中に置くと、そりに座り込んだ。
一歩、また一歩と前に踏み出す。営業時代は足で稼いだはずなのに、その足は今、鉛のように重い。そんな右足に自身で渇をいれながら、少しずつだが確実に進んでいく。その様子に場内が息をひそめた。競技中の音楽だけが華やかに鳴り響く中、私は黙々と治人のそりを引いて「走る」。
しかし、折り返し地点を過ぎて、日頃運動らしい運動をしていない私は、息が完全に上がってしまっていた。肩で息をしている私に、治人は立ちあがった。
「ダメだ、治人座ってろ!」
「お父さん、もういいよ。お父さんが壊れちゃうよ……」
治人は泣きながら、それでも渋々またそりに座った。
「大丈夫だ、男が一旦引き受けた仕事を投げ出したりできるか。それに、父さんはそのプレシャス何とかなんだろ」
「プレシャスブル……」
「じゃぁ、心配するな」
私は治人にウインクすると、また前に向かって「走り」出した。すると治人は、
「お父さんガンバレ!」
と大声で私の応援を始めた。
「そうだ、治人のパパガンバレ!」
そして、前の方からも声援が響く。見るともうとっくにゴールしていて良いはずの同走者が、ゴールの一歩手前で立ったままでいた。その治人の同級生の少年も真っ赤な顔をして一緒に私を応援してくれていたのだ。やがて、それは大きな応援の波となって私に打ち寄せてきた。会場の皆が私にエールを送ってくれる。
「ガンバレ、ガンバレ」
という声に導かれて、ようやく私はゴールテープを切った。そのすぐ後、他の二人がゴールに飛び込む。会場から大きな拍手が送られた。
「皆さん……」
「松野さんは文句なく一番ですよ」
父親と言うには少し若そうなロン毛の同走者がそう言い、もう一人が頷く。そんな私に、実行委員が折り紙で作られた金メダルをかけてくれた。
「ありがとうございます」
私は礼だけを言って最後尾に並ぼうとした。
しかし、そこには車椅子を押した純輝の姿があった。
「よしりん、お疲れ。かっこよかったよ。これ以上負担かけられねぇだろ。だから、持ってきた」
彼は笑ってそう言った。
私の後にはもう二組しか残っていなかった競技はあっという間に終わり、私は純輝の持ってきてくれた車椅子に乗り込むと退場門から観客席に移動した。その際にも、拍手が沸き起こる。私は気恥ずかしくて赤くなりながらトラックを後にした。
「純輝、やってくれたな。仮病か」
だから、観客席に着くや否や、私は純輝に文句を吐いた。
「人聞きの悪いこと言わねぇでくれよ。すっきりしたから、飛んできたのにさ」
それに対して、純輝はしれっとそう答えた。
「家からここまで何Kmあると思ってんだ」
「オレ、家で唸ってるって一言でも言ったか? ここのトイレで唸ってたんだよ」
「まぁ、良い。そう言う事にしといてやる。純輝、ホントにありが……」
「良い訳ないでしょ! 純輝、何て事してくれるの!!」
だが私が渋々という感じで彼にお礼を言おうとしていたその時、反対側でビデオ撮影をしていたさくらが私たちの許にすっ飛んで来て、いきなり平手で純輝の頬を打ったのだ。
「痛ってぇ!」
「さくら!」
「純輝、芳治さんが競技中に転んだらどうしてくれるつもりだったの? 転んで補強してある部分がズレでもしたら、手術しなきゃなんないんだからね。あの時の手術から十八年も経ってるのよ、その部分にはもう肉がしっかり巻いてて、ちょっとやそっとじゃ元に戻せないんだから。二度と歩けなくなるかもしれないのよ!」
「ウ、ウソ……さくらちゃん、ゴメン。オレ、そんな大変なことになるなんてちっとも思ってなくて……」
ぶるぶると唇を震わせて怒るさくらに、純輝は塩をかけられた青菜のように一気に萎れた。
「転ばなかったんだから、良いじゃないか」
慌てて私がフォローに入るが、さくらの怒りは治まらない。
作品名:ボクのプレシャスブルー 作家名:神山 備